【第750回】 新型コロナウィルスに学ぶ

今、世界は新型コロナウィルスに冒され、これまでの日常生活を送ることが出来ず、途方にくれたり、混乱している。学校や仕事には行けず、飲み屋や映画館や旅行にも思うように行けない。また、心配なのは、いつこの新型コロナウィルス感染が終息するかということである。更に、この新型コロナウィルスに対するワクチンがいつ完成し、いつ我々がつかえるようになるのか等、8月の今のところ不明であることである。更にまた、発展途上国に感染している新型コロナウィルスはまだまだ感染拡大が続くだろうし、もっとひどくなるのは想像がつくし、その終焉は相当遅くなるはずである。地球上のどこかに新型コロナウィルスが感染している内は、地球は安全ではない。海外旅行も海外貿易も正常に出来ないし、オリンピックも無理だろう。

こんなことは新聞やテレビで毎日報道されていることである。新聞やテレビでは大事な事であるが、個人として、合気道家としてはもっと大事な事があると思う。自分ではどうなのか、どうすればいいのかということである。
まず、個人であるから、自由に考え、その考えを発することが出来る。また、合気道家としての思想と理によらなければならないことになる。この前提で、新型コロナウィルス災害について書いてみる。
合気道の理とはこの場合、陰陽の理である。表があれば裏があり、悪い面があればよい面もあるということである。
つまり、新型コロナウィルス災害は困ったことであるが、それは実際に起こってしまっている事実であること、健康上そして経済的な問題があることも事実である。これに対して個人的にできることは、マスクをして余り出歩いたり、人に接しない事ぐらいであり、後は、医療関係者と政治家が責任をもってやるべきことである。

そこでせっかく体験している新型コロナウィルス災害を、文句を言うだけでなく、この機会を逆手に取って、+(プラス)志向で、つまり、将来のためになるように考えてみたらいいと思う。
例えば、これまでの当たり前の日常生活の有難さに感謝することである。会社や学校に、公共交通機関で通ったり、友人知人たちと飲みに行ったり、映画を見たり、旅行をしたりと好きなように出来たことに感謝するはずである。このような日常の当たり前の生活の有難さ、素晴らしさは、その当たり前の生活をしている中では気がつかないもので、このような新型コロナウィルス災害に遭って初めて気がつくものだろう。

このような新型コロナウィルス災害では、己自身や会社の新たな面やこれまでと違ったやり方を見つけさせてくれるものだ。新聞やテレビで幾つかの中小企業が、新型コロナウィルス災害のため仕事が減り倒産に追い込まれるのだが、新規の事業を立ち上げ、新たな事業を展開することになったという。ピンチをチャンスに変えたわけである。
私の場合は、新型コロナウィルスにより道場が閉鎖されたが、そのお陰で技をより深く探究したり、山歩きなどして体を耐えることが出来た。

更に、この新型コロナウィルス災害は、このコロナウィルスだけが悪いわけではなく、自分たち人類全部にも責任があると思うようになった。合気道的に見ると、すべての争いや問題は、必ず当事者同士に責任があるという事である。争いがあれば、二人なら二人、10人なら10人の全員に大小強弱はあるものの、その争いの責任があるのである。一人だけが絶対に正しく、もう一人は正しくないというものではない。だから、裁判で裁判官、検察、弁護士が苦労しているわけである。
つまり、新型コロナウィルス感染は我々人間にも責任があるという事である。我々人間が何か過ちを犯したことによって新型コロナウィルスが発生し、感染が拡大したということである。人間はこの機にこれを考えなければならないと思う。そうしなければ、そして人が冒した過ちが分かれば、今後、このようなウィルス災害は起こらなくなるかもしれないし、少なくとももう少し上手く対処できるようになるのではないかと思う。

コロナウィルスだけでは生きられないし、コロナウィルスだけでは感染も拡大しない。
新型コロナウィルスにやられたり恐れるだけでなく、新型コロナウィルスに学ぶ事も大事であろう。今後も発生するであろう「新ウィルス」達とは共存、共生していかなければならなくなるだろうから、その共存、共生のためにも、新型コロナウィルスからいろいろ学ばなければならないと考える。