【第744回】 天と結ぶ

最近ようやく、己の気と天の気を結び、天の気によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生み出すということが多少わかってくると、世の中を見る目が変わってきたようである。世の中がよく見えるし、みんな一生懸命に生きていることがわかる。そして子供も大人もみんな頑張れと応援したくなるのである。人だけでなく、草木や鳥も一生懸命に生きているのが見える。

また、己が日々生きている事の喜び、朝目覚めた時には、今日はどんな出会いがあるのか、何を教えて貰えるのか、どんな感動がまっているのかに期待して爽快に起き、また明日はどんな発見があったり、これまで出来なかった事がどれだけ出来るようになるのか等、明日を楽しみにするようになる。
頭が軽くなり、気持ちは陽気に、楽しい気持ちになる。これまでの損をしないよう、得しようとか、人と比較したり、人を疑ったり、幸せに嫉妬したりするような気持は消えていっているようである。

仕事を辞めた今、自由である。時間はある。会社務めの時と違い、会社に行って働かなければならないという義務はない。長年この働く義務を果たしていくのは容易ではなかった。早く、この働かなければならない義務から解放され自由になりたいと、特に定年近くなると希望したものである。
そして定年になって自由になると、当分の間は自由を謳歌するが、徐々にその自由が“ガン“になってくる。何かしないといけないと思うし、何もしないという罪の意識や不満を持つはずである。何故、そう言えるかと云うと、自分が経験してきたことであるし、また、人間、否、万有万物は本来生産的に生きるように創られているからであると思う。

生産的に生きるという事は、一般的にはお金を稼ぐことであるが、合気道的に云えば、宇宙天国建設の生成化育である。つまり、世の中を少しでも良くしていく事である。これに加担していれば生産的であり、生きているという喜びを実感できるわけである。
しかし、このことは学校でも社会でも教わらない。だから、退職した高齢者は悩み、迷っているのだと思う。それでは何故、学校や社会では真の生産的に生きるという事を教えないのかと云うと、独断的ではあるが言わせて貰えば、まだ、学校は労働力・労働者を育成する場所になっており、そしてまた社会は、労働をしている人を評価し、労働をしていない高齢者などは評価しないからだと思っている。
特に日本はまだ、人を人として正しく評価することが出来ないと思う。北欧諸国のように、学校は人を育てる場所であり、社会も人として少しでも楽しく幸せに生きる場所になっていないのである。

話を戻す。若い内は、労働力としてやるべきことをやらなければならない。つまり、他からの義務を果たさなければならない。それに対して、高齢者は労働の義務はない。つまり、他からの義務を果たさなくてもいい。
しかし、高齢者は、やらなくてもいいことをやらなければならないと考える。自由の義務を果たすという事である。自由の義務とは、合気道では天の使命という。宇宙天国建設の生成化育のための天からの使命である。やらなくとも誰からも叱られないし、苦情も出ない。しかし、この自由の義務は、労働や社会的な義務などと比べられない厳しいものである。どんなことがあってもやり遂げなければならないと思う義務である。毎日、少しでもやり進んでいかなければ満足できないものである。学校や会社ならちょっとお休みとなるだろうが、この自由の義務は自分との戦いであり、合気道的には云えば、神との共同作業と言えよう。はじめは神様など全然信じていなかったが、いろいろ教えて貰っていると、神様からの使命ではないかと思われてくるのである。己の自由の義務、天からの使命を果たさないと、生きている満足感を得られないと思うし、それを見つけ、果たしていけば神々の助けもあり、充実した過ごし方が出来ると思っている。

これも天と結ぶようになったお陰であると思っている。
これを大先生は、「天の気によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生み出す。これが人のつとめであり、その上吾人には八百万の神々が悉く道に守護してくれることになっている」わけだから、神様が導いて下さっているといえるだろう。

天と結べば、自由の義務やその有難さなど、目には見えないモノが見えてくるようである。