【第734回】 技から業へ

合気道は技を錬磨しながら精進していく武道である。万有万神の条理を見つけ、技に取り入れ、そして心体に取り込んでいくのである。これが宇宙との一体化であり、合気道の稽古の目標である。
しかし、合気道にはもう一つの目標がある。それは地上天国建設の生成化育である。地上に天国を建設するということである。誰もが、また、万有万物が幸せな世の中をつくること、そしてその建設の生成化育に努める人、万有万物を支援することである。
この第一の目標である宇宙との一体化は、所謂、小乗の合気道であり、若い時からでも出来る。しかし、第二の目標である地上天国建設の生成化育は、ある程度年を取って来ないと出来ないと思うし、そもそも若い内は興味が持てないだろう。
今回は、第二の大乗の目標のために、若い頃でもやり易い“技”ではなく、ある程度年を取らなければ出来ないと思う“業”について研究してみることにする。
タイトルは『上達の秘訣』に相応しいだろうが、『高齢者のための合気道』で書くことにする。

『上達の秘訣 第494回 技を業に』で書いたが、合気道では、二つの「わざ」という漢字が使われる。「技」と「業」である。
「業」を辞書で見ると、“なんらかの意図をもたずなしたこと。また、その行為、おこない、振る舞い、務めとしてすること。習慣となっている行為、仕事。”とある。そして「業」と対照的な「技」は、何らかの意図があり、意識してつかうものであるといえよう。
従って、技は技術、テクニックであり、合気道や武道界では評価されるが、一般社会ではそれほど興味を持ってもらえないということになる。
業は自然に出てくる動作であり、立ち振る舞いであるから、武道界は勿論、一般社会が興味を持つことになる。合気道の開祖、植芝盛平先生が武道家だけではなく、芸能界、花柳界、宗教界、学界などを魅了したのも、大先生の素晴らしい業に魅了されたからだと思う。武道界外の方々は、合気道の“技“ではなく、”業“を大先生から学びたかったはずである。大先生の自然で無駄なく美しく力強い一挙手一投足、姿勢、歩き方、目付などに魅了されたのである。

“業”は、なんらの意図をもたずになし、日常生活で自然と出てくる動作であるから、身に付けるのは難しいだろう。子供時代の家庭教育、学校や社会のしつけなどで決まってしまうと思うからである。
成人して“業”を学べるとしたら、茶道、華道、お仕舞などではないだろうか。

“業”は、本来、合気道でも身につけることができるはずである。大先生がご健在だった頃の合気道の先生方や先輩方は、“技”も素晴らしかったが、稽古以外での立ち振る舞いも、スキのない美しい“業”であった。
ある時、稽古が終わった後、いつものように車座になった先輩たちの話を聞いていると、一人の年配の先輩が、「(本部道場で教えておられた)藤平光一先生がお酒を飲んだ後、弟子たちと店を出て歩いていたが、少し酔った一人の弟子が藤平先生の後ろから、“先生!”といいながら先生の肩に手を置こうとしたところ、弟子は先生の肩に触れたか触れないうちに先生の前に転がっていた」というのである。流石、藤平先生だと皆で感心した次第であるが、これも“業”というものだろう。

このことからも、合気道の“技”を追求錬磨していけば、“業”は身に着くはずであるし、また、“技”を磨く以外に“業”を得られないと思う。
但し、相対稽古で技を掛けるときだけでなく、技を掛ける前と後、道場に入ってから出るまでの動作、挨拶、立ち振る舞いなども精錬していかなければならない。更に、道場を出た後も、また、道場に来るときも、“業”の稽古をすればいい。そして日常生活がすべて“業”の精錬の場としていくのである。

“技”は“業”の礎であるから、まずは礎の“技”を磨き、そしてその礎をもとにして“業”を生み、身に付けていかなければならないだろう。
昔の剣豪、勝海舟や山岡鉄舟などは剣の技を鍛え上げ、そして“業”を身につけ、天下国家のお役に立つ活躍をされたのである。両剣豪を見ても、技は若い内、そして“業”はあれ程度年を取ってから完成していたはずである。
高齢者の“業”に期待しよう。