【第705回】 剣・杖の稽古と合気の技の稽古

合気道を始めて何年かすると木刀や杖に興味を持つはずだ。本部道場には幾本かの木刀や杖が掛けられており、誰でも使うことができる。
合気道の基本の形をある程度覚え、受け身も取れるようになってくると、その木刀や杖に触り、振ってみたくなるはずだ。だが、大体は数回振って止めてしまい、それで満足するのか、その後、当分は振ることはなくなるようだ。
私の場合は、機会があれば振るようにしていたが、初めは誰も教えてくれないので自己流であった。ある時、ある先輩から、そんな振り方では大根も切れないといわれたので、その先輩の首を切れるぐらいになるよう稽古に励もうと思った。お蔭様で一人のいい先輩に剣や杖の振り方を教えて貰えることができた。その先輩の剣と杖は素晴らしく、今でもこれ以上上手な人の剣や杖を見たことがない。勿論、大先生は別である。

道場で剣や杖を振るのを大先生に見つかると、「お前たちにはまだ早い」とお目玉を貰うので、大先生が東京のお宅(道場に隣接)に居られるときは、誰も剣や杖を振らなかった。振る時は大先生が居られるか如何かを事務所や先輩・仲間達に確かめてやったものである。みんなそのように剣・杖を振って稽古していたはずである。何故ならば、道場にあった剣や杖はまともなものは一本もなく、折れたり、欠けたりしていたからである。

大先生は剣や杖を振ることが悪いと言われていたのではない。まだ、合気道も十分に分からず、体もできていないから無理なので、まずは技と体の錬磨にもっと精進しなさいといわれていたのである。更に、今思えば、大先生は稽古人達に、剣や杖をつかえるようになって欲しいと願われておられたようである。
それを裏づけるエピソードがある。前出しの先輩から聞いた話である。
この先輩とフランスで教えられていて先般亡くなられた田村信喜先生が、若い頃、夜の稽古が終わった後、二人で真剣に剣の打ち合いの稽古をしておられたが、ふと気がつくと、大先生が道場の上段の間(古い道場には上段の間があった)に座られていて、二人の剣の打ち合を見ておられたのである。二人は、直ぐに剣を引き正座し、大先生にご挨拶したが、てっきり「お前たちにはまだ早い」といつものように叱られると覚悟した。ところが、大先生は大目玉どころか、にこにこしながら、「今度、爺が教えてやるからな」と言われたというのである。お二人の剣づかいが、大先生のお眼鏡に適ったということである。
この先輩は、夕食を終えると毎晩、家の近くの空き地(道路)で、剣と杖の素振りしたり、週末は高尾山に夜のぼり、山中で剣と杖を振り、その後眠らずに翌日の夕方まで山を歩き足腰を鍛え、剣・杖を振っておられたのである。
私も何度かご一緒させてもらったが、いい稽古になった。

剣の素振り、杖の素振りはした方がいいし、しなければならないと思う。何故ならば、剣や杖の素振りの稽古から、合気道の技と体づかいの理合いがより深くわかるからである。素手(徒手)でやるよりも、得物(剣・杖)をつかった方が、結果がはっきりと分かるし、また、力も着く。
只、注意しなければならない事は、合気道の剣や杖の稽古は、剣道や杖道の稽古とは違うという事である。合気道の剣や杖は己の体の一部として扱い、道具として扱ってはならないのである。剣や杖を巧みに扱うのではなく、剣や杖が己の手の様に動くようにすることである。

更に、合気道の剣や杖の稽古で大事な事は、合気道の技と体に則って剣や杖をつかう事である。
例えば、剣では、手は肩を貫いて十字につかう。剣先と腰腹を結び、腰腹で剣をつかう。剣先は正中線上を上下する。息は阿吽の呼吸。
杖では、同じ側の手と足が同時に陰陽で、ナンバで動く。腰は十字でつかう。手は折れないように螺旋でつかう。

次に、素手(徒手)での技と体の錬磨においては、稽古をしている剣や杖の動きを取り入れていかなければならないと考える。
例えば、四方投げでは、相手の胴を剣で切り払うようにする。二教裏では、剣で相手の小手を切るようにする。正面打ち入身投げでは、相手の打ってくる手を刀に見立て、それを入身して己の手を剣と思ってそれを切り下ろす。
正面打ち一教の手は刀として相手を打ち込み切り下ろす。
また、片手取り・諸手取呼吸法では、杖の槍足で進み相手と接する。同じ側の手と足は一緒に陰陽でつかうが、これは杖の素振りでその道理が分かり、身に着きやすい。入身投げでも一教でも四方投げでも、腰腹が十字々々に変えてつかわなければならならないが、剣や杖の左右の素振りの稽古で身に着きやすい。

このように剣・杖の稽古と合気道の技の稽古には相関関係がなければならないと考える。従って、剣・杖が上手くつかえれば、合気道の技・体もそれに比して上手くつかえるはずであるし、合気道の技がつかえるようになったら、剣・杖の得物もその程度つかえなければならないと考える。