【第689回】 衣食住が基盤

高齢者には役割と責任があると考える。
人は40,50年務めると退職し、労働社会から解放される。もう会社に行く必要もなく、経済的には年金がもらえるので、時間的にも精神的にも自由になる。
仕事をしていた時は、物質文明、競争社会の中にあり、この見える世界での責任を果たしてきた。会社や組織、社会や国、そして家族に対する責任を負い、それを果たして来たわけである。
仕事を辞めると、これまでの見える世界の責任はなくなり、それらの責任から解放されるので、自分はもう責任はなく、自由だと思ってしまうことになるようだ。だから、何もしなくていいし、好きにやりたいことをやりたいようにやってもいいと思うようだ。

しかし、多くの仕事を辞めた高齢者は満足して楽しんでいるようには見えないのが問題である。街を歩いている高齢者、電車に乗っている高齢者、公園やデパートに長く座っている高齢者、飲食店や喫茶店につまらなそうに居る高齢者等、楽しそうではない。

高齢者の多くが何故、楽しく過ごしていないかを考えてみると、その一つに高齢者にも役割のあることに気がついていないことだと思う。
つまり、高齢者には新たな責任があるということであり、それに気づかず、気づいても、それをどうすればいいのか分からないのだと思う。

高齢者の最大の責任は、社会的な責任を負い、果たしている若者たちや後進、そして孫子に対して、“高齢者になることは素晴らしい事だ”ということを伝えることであると考える。しっかり働き、そして定年で仕事を終え、自由になれば、このように楽しく生きていけるということを示すのである。若者たちはそれを見て、自分が高齢者になっても、あのように人生を楽しむことができるのだと自覚できるのである。もし、高齢者がつまらない人生、人生を楽しんでいないのを見れば、若者は高齢者になる事に納得出来ないし、高齢になることに対して恐怖心を持つと同時に、目にする高齢者を軽蔑するだろう。

人世を楽しむ基盤は、衣食住である。まずは、人生の基盤である衣食住を楽しむようにしなければならない。食べる事を楽しみ、着る事を楽しみ、そして住む処を楽しむのである。
スマホやテレビを見ながら食事をしたり、会話もなく、只、出ているモノをもくもくと食べたりしては、楽しくない。イタリア映画やフランス映画に必ず出てくる食事のシーンでも見て、食事の大事さと食事の楽しみ方を勉強するのがいい。
食事を楽しむとは、美味しいモノを食べて楽しむことと、食事を楽しむ事だと言われるが、食事を楽しむことは誰でも、いつでも出来るはずである。心がけ次第で楽しめるはずである。食べるモノに感謝し、共に地球楽園建設へ生成化育に頑張ろうと対話をすれば、食べ物の気持ちもわかり、楽しくなるはずである。

次に衣の着る事を楽しむである。街や周りで見る高齢者の服装をみると、その多く、特に男性が山歩きでもするような服装になっている。恐らくどこに行くにもその同じ服装で行くのだろうと思う。見ているこちらの方もつまらないが、本人も楽しくないだろう。人生の大きな部分を締める、着る事の楽しみを放棄しているからである。己の服装を楽しめなければ、他人の服装も楽しめないから大損である。自分で出来る範囲はあるだろうが、TPOで服装を楽しみたいものである。
因みに、私の場合は、和服で楽しんでいる。季節や陽気や天気により、行くところや会う相手により、着るモノや履物、持ち物を変えている。

住を楽しむとは、極端な場合、その余裕があれば、住居を変えたり、思うようにリホームすることになるだろうが、一般的にはそれは難しいだろう。
まあ、一般的に高齢者でもできる事は、住むところを住みやすくすればいい。内装をちょっと変えたり、絵や花を飾ったり、整理整頓をすればいい。

生活の基盤である衣食住が楽しめるようになると、+α(アルファー)が楽しめるようになると思う。例えば、趣味と云われるものなどである。合気道を楽しめるのも、この衣食住の生活基盤を楽しんでいるからだと思う。もし、この衣食住の生活基盤に問題があれば、合気道の稽古を楽しむこともできないはずである。

衣食住の生活基盤を楽み、趣味(例えば、合気道)を楽しめるようになると、更なるモノが楽しめるようになっていくはずである。そしてそれらが、趣味の合気道を深め、そして衣食住を更に楽しくいくだろうと考える。

これの喜びを、後進や孫子に示すのである。我々高齢者は責任重大なのである。高齢者は自由で経済社会的な責任は無くなったが、若者に対する役割と責任があるのである。