【第680回】 高齢者の稽古とは

この項では、「高齢者のための合気道」をテーマに書いてきている。趣旨は、高齢者は合気道にどのように取り組んでいけばいいかということである。
これまで長年に亘っていろいろ書いてきたが、今回は、原点に戻って、高齢者の稽古とはどうあるべきかを考えてみたいと思う。

私も数日前に78才になったので、年齢からしても、世間では高齢者と認めてくれるはずである。また、自分自身でも、体力的、精神的衰えからして、間違いなく高齢者であると思っている。間違いなく、体力や持久力、記憶力などは若い頃と比べれば雲泥の差である。
とは言っても、高齢者は駄目だとはいっていないし、自分が高齢者になったから悲観したり、失望しているわけではない。逆に、高齢者を楽しんでいるし、早くもっと高齢になりたいとも思っているのである。若い頃には出来なかった事ができるようになったし、分からなかった事がわり、これまで見えなかった事が見えるようになってくるからである。90才、100才まで生きられるとは思わないが、その最後の自分がどのような稽古ができ、どのような技がつかえるか楽しみなのである。

合気道の稽古でも、若い頃には分からなかったことが、分かってきた。
この“高齢者の稽古とはどうあるべきか”もその一つである。若い頃には興味がないだろうし、高齢者になって初めて分かってくることであろう。

高齢者の稽古はどうあるべきかを一言で言えば、無理をしないということになろう。若い頃は多少無理をしても、体を壊すこともないし、回復も早いので問題ない。また、若い内は、多少無理するぐらいでないと、身に着かないものである。年を取って無理をすると、回復は遅いし、場合によっては再起不能にもなるからである。また、年を取って無理しても大事なモノは身に着かないようである。

稽古で無理をしないということは、無駄がない稽古であり、多すぎも少な過ぎもないことである。これを自然といっていいだろう。合気道で云う、宇宙の営みに合するということである。合気道は形稽古で技を練り合って精進するわけだが、技を掛ける際も受け身も宇宙の法則に則ってつかうのである。

つまり、高齢者の稽古とは、宇宙の法則に則った稽古をしていくことである確信している。これまで他の項「合気道の思想と技」「合気道の体をつくる」「合気道上達の秘訣」に書いてきたことをやることである。この稽古の延長上を行けばいいことになろう。

この稽古を続けて行けば、これまでの魄の稽古から、魂の稽古に変われるはずだから、いずれ魂の稽古ができるようになるだろう。そうなれば高齢者でも、体と頭が働くかぎり、稽古を続けることができるはずである。若者の魄力と異質な力で稽古が出来るわけである。

しかし、宇宙に則った技を法則に則ってつかうためにはある程度の力が要る。一般的な力は魄の力、所謂、体力、腕力であるが、高齢者はこの力がどんどん衰えていくのでこの魄力に替わる力の養成が必要になる。それは呼吸力という力である。技を身につけていくためには、この呼吸力を稽古の終焉までやり続けなければならない事になると考えている。その意味で、呼吸力養成法である“呼吸法”(片手取り、諸手取、坐技)をやるといいと思う。