【第374回】 食べること

年を取ってくると、食べることに関しても、若い頃とは変わってくる。一つには、食べる量が減ってくる。二つ目は、若い時はフランス料理、イタリア料理、スペイン料理、ドイツ料理など外国料理を食べ歩いたり、作ったりしていたが、年を取るに従い、日本食に集中してくる。外食も、寿司屋、鰻屋、ふぐ料理屋と和食系になる。三つ目は、和食中心になるが、それも段々と納豆、やっこ豆腐、刺身、メザシなどあっさりしたものになってくる。

食べることは大事である。しかし、いろいろな事情で思うように食べられないこともあるだろう。

自分のことを振り返ってみると、終戦直後の子供の頃から学生時代まで、ただ腹いっぱい食べられればよかった。上手いとか不味いなどと考える余裕もなかった。それでも、高校までは親が栄養など考えて食事をつくってくれたので、あとは腹いっぱい食べればよいだけだった。

大学は親から離れて暮らしたが、最低限の食事はしなければならないと思った。お金はあまりないのでアルバイトをしたが、合気道の稽古代のほかに、友人たちとの遊興費、本代、映画代などなどで、お金がいくらあっても足りない。そのため、食事代もなくなってしまう危険性があった。

そこで当時、出始めた電気釜を購入し、月初めにくる仕送りでまずは米を買うことにした。これが月の20日ごろになると活躍してくれた。おかずは肉屋でコロッケやメンチカツを買った。そのため、初めの20日間は外食や学食で好きなものを食べて、自分にとっては王様のような食事だったが、後の10日はご飯とコロッケの貧しい食事となった。

学生時代は何がうれしいといって、食事をご馳走になることほどうれしいことはなかったが、当時はまだ日本は貧しく、あまりご馳走になった記憶はない。今の学生や若者は、食事をご馳走してもあまり喜ばないどころか、かえって迷惑がるようであるが、これも日本が豊かになった証拠だろう。

学校を卒業してから、ドイツへいった。一年後にミュンヘン大学に入るのだが、その間に持って行ったお金が乏しくなって、食べることにも頭を使うことになった。大学に入るためにはドイツ語の試験に受からなければならないが、そのために必死で勉強する必要があったため、金と時間の両方を大事にしなければならなかった。

それでも食べなければならないので、まず安くてお腹一杯になること、さらに時間を節約することも考えなければならなかった。

それで、まず赤ん坊でも入りそうな直径50cmもある鍋を買った。そして、主食になるマカロニを買った。その鍋でゆでると、マカロニが鍋の半分ほどもあった。ゆで立てのマカロニはバターで食べた。次の食事では、マカロニを温めてパルメザンチーズで食べ、その次は、ケチャップでたべた。マカロニを食べつくすと、スパゲッティにした。たまには奮発して、ハムやカツレツなども食べたが、これでだいぶ食事のための時間と労力、それにお金を節約することができたものである。お陰でドイツ語の試験にも合格し、大学に入ることができた。

大学に入学すると、滞在許可証がもらえる。すると、アルバイトでお金を稼ぐこともできるようになるので、生活に余裕ができた。その後、結婚して女房と暮らすようになってからは、ふたりで頻繁に外食して、ドイツ料理を研究した。

はじめはメニューを見てもどんな料理家かわからず、家に帰って辞書を調べたり、隣室のドイツ人学生に聞いたりした。また、二人で料理を注文するときには、一つは自分たちが知っているもの、もう一つは知らないモノを注文するようにした。時には予想もしていなかった料理が運ばれてきて、ほんとうに我々が注文したものかどうか、確認したこともあった。

ありがたいことに女房は血液型がB型で、知らないモノでも喜んでたべるので、何がきても問題はなかった。お陰で、南ドイツの料理は一通り知ることができた。

ドイツには約7年ほど滞在したが、合気道を教えた関係で、頻繁に弟子の家に招待されて、ご馳走になった。大学には4年ほど席を置いていたので、友人もでき、ドイツの家庭のクリスマス料理まで体験できた。

最後の2年間は会社勤めをしたが、同僚の結婚式でフランスとオランダでの式に招待されて、結婚式を体験した。とりわけフランスの結婚式は印象的だった。教会での式のあと、祝宴が5時間ほど続いた。その後1時間ほど散歩したものの、引き続き夜のパーティになり、深夜まで続いたので満腹で苦しかった。どのお客もさすがに苦しいらしく、いろいろとゲームや踊りなどを組み入れるのが面白かった。

その後、合気道の関係でフランスへ毎年行くことになるが、この国の人々がいかに食べること、すなわち飲食を大事にしているか、肌で感じることがあった。

多分、初めての講習会で、フランスのワインの産地であるディジョン市へ行った時のことである。稽古が終って、例によってみんなでワイワイガヤガヤお店で飲み始めたとき、フランス人の友人の兄さんがワインの目隠しテストをやろうと言いだした。

まず、ワイングラスを私に持たせ、このグラスにワインを入れるから、赤ワインか白ワインか当てろと彼がいった。目隠しをされると、グラスにワインが注がれた。まず匂いを嗅でみると、赤ワインの匂いであった。一口飲んでみてから、「赤ワインだ」というと、「正解!」といってみんな褒めてくれた。

すると、もう一度テストをやると言う。また目隠しをされて、ワインが入ったグラスを手渡された。匂いを嗅ぐと、不思議なことに水道水の匂いがした。

私は鼻がけっこう敏感なので、自分の鼻を信用することにした。それで、「水だろう」というと、「残念でした、白ワインです」という答えである。実は、グラスには白ワインが入っていたのであるが、私をひっかけようとして、グラスの縁に水道水を塗ってあったのである。フランス人はみんな、満足と敬意を顔に浮かべていた。

おかげで信用を得て、それからはいつもおいしい食事をご馳走してくれるようになった。もしワインの目隠しテストに合格していなければ、それほどおいしいものを頂けなかったのではないかと思う。食べることを大事にしていてよかった、とつくづく思ったものだ。

食べるということは、それに合う飲み物も付属するわけだから、飲み物も大事にしなければならないのである。とりわけフランスやイタリアなどのラテン系の国では、気をつけた方がよいようである。

当時、ミュンヘンに合気道を習いに来たフランス人のペアと友人になったが、我々が日本に帰国すると、夫婦で後を追ってやってきた。結局、その後も長くつき合うことになる。

当時は勤務先が東京だったし、食べるための経済的な余裕もできていたので、頻繁に食べ歩きをすることになった。ドイツ料理、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理などなど、女房とふたりで、また、フランス人夫婦の4人で、ずいぶんあちこち食べ歩いたものだ。

すると、今度フランスへ行ったら、フランス料理の最高の店といわれる「ピラミッド」へ食べに行こうと、彼らがいいだした。そして、まずはその予行練習ということになり、銀座の「レンガ屋」を予約した。そして、フルコースを食べたのだが、なんと5時間もかかった。店の閉店までいたのは我々だけだったが、レンガ屋のオーナーが気をよくしたのか、これから飲みに行こうと誘ってくれた。しかし、もう1滴も入りそうもないので、残念ながらお断りして、ふらふらしながら帰宅した。

それから、夏休みと有給休暇を利用して、リヨン市郊外にある「ピラミッド」へ行った。女性は二人とも着物姿である。1時の昼食の予約をして、店に行くと、この店のオーナーであるマダム・ポアンが愛犬と一緒に我々を玄関の外で待っていてくれて、ひとりひとりと握手してくれたのには感激した。マダム・ポアンはこのピラミッドをつくったポアン氏の奥さんである。ピラミッドは、多くの有名シェフが修行したので、その名を世界的に知られている。

中に入ると、それほど広くないレストランであったが、フロアが3つに分れており、テーブルは満席であった。われわれは本格的に味わうために、フルコースを予約しておいた。アラカルトなら自由に選べて、量も調整できるが、フランスの高級レストランではフルコースを頂くのが、お店の得意料理を味わうのにベストなのである。

しかし、コースを食べるのは、相当な覚悟がいる。シャンペンからはじまり、前菜、魚料理、肉料理と続く。大きい肉料理をやっと食べ終えてホッとしたとことへ、給仕さんが金属のお盆に肉を入れて、もう少しいかがですかと勧めにきたときには、助けてくれと悲鳴を上げたいのと、さすがに噂のお店だと感心する気持ちの両方だった。

ワインは白と赤とを一本ずつ開けた。デザートはフルーツと自家製のケーキで、コーヒーで美味しく頂いたが、みんなにもこれが限界であった。ところが、これですべて食べたと思っていたところ、さらに自家製のクッキーが出てきたのである。我々男性陣は残念ながらギブアップしたが、女性陣は目配せしながらひとつずつつまんでいた。苦しくとも食べる女性の生命力、執念の強さを再認識させられた。

最後に、フランスではよくあることだが、店のおごりでアルコールの強い(45度)食後酒を飲んだ。この風習は「ノルマンディーの穴」と言われ、満腹の胃に隙間をつくって、満腹の苦しみを和らげるのである。フランス人男性は、ここで葉巻を吸った。

食事が終わりに近づいた頃には、客は我々だけになっていた。しかし、給仕さん達は少しも気にもしないで、にこにことサービスをしてくれた。客に少しでも楽しんでもらおうというのが、プロなのである。重い腰を上げた時には、もう5時間が過ぎていた。

今では、もう5時間もかけて食事をする元気はないだろう。若い時にやっていてよかったと、つくづく思う。

高齢になった今は、若いころのような量ではなく、質に気を使うようになった。つまり、できるだけよい肉や魚でたんぱく質を、生野菜でビタミンを取ることである。また、水分を取ることにも気をつけている。

また、高齢になって一番変わったことは、たまに得意な料理をつくるようになったことである。得意な料理、というより、自分にできる料理とは、スパゲッティ・ボロネーゼ(アサリ入りスパゲッティ)と、鶏の手羽と手羽先、ジャガイモ、人参、玉ねぎを入れる圧力鍋の蒸し焼き、秋刀魚など魚の網焼きの三つである。女房が忙しい時や自分が食べたくなったときに、これをやるのである。これからは、もっとレパートリーを増やして、より豊かな食事をしていきたいと思っている。