【第324回】 時間が惜しい

若い頃と高齢になってからの違いはいろいろあるが、そのひとつに、時間の観念がある。若い頃は、時間にあまり頓着しなかったように思う。子供の時は親の時間に合わせていたし、学校に通う間は学校時間で生活し、社会に出れば社会の時間で働いていたので、自分の時間を考えることはなかったようだ。

合気道の稽古でも、時間はいくらでもあり、いつでも稽古できて、永遠に稽古を続けられるようなつもりで稽古していた。今日はうまくいかなかったが、明日も明後日もあるし、その内にできるようになるだろう、と思っていたので、うまくできなくても何とも思わなかった。

自分が年を取ったなと感じるのは、この時間の観念が変わったことである。 一つ目は、そう遠くないいつか、あちらからお呼びがかかるのだなあと思うようになった。若い頃は永久に若くいられるようで、死ぬことなど考えもしなかったのだ。

二つ目は、世に生まれ出たモノは、すべていずれ消滅することを、自覚するようになったことだ。寂しいことである。しかし、ここから人や生き物に愛しさを感じるようになるようである。特に、小さな子供たちを見ると、愛しくなるのはそのためだろう。

三つ目は、もしかすると明日は息が止まっているかもしれないとか、合気道の稽古もこれが最後でもうできないのではないか、と思うようになることである。だからだろう、今日の稽古でできなかったことや課題は、その場・時間で処理するようになる。その問題がその場・時間で解決されなければ、なるべく早く解決するようになってきた。

四つ目は、残されている時間はそう多くないだろうから、大事にしなければならないと実感することである。時間を大事にするということは、生産的に生きるということであろう。例えば、合気道を修行しているときは、自分の合気道が少しでもレベルアップするために、時間を使うということである。

つまり、レベルアップと関係ないことには、時間を使わないことである。レベルアップに無益なモノをどんどん切り捨て、時間と精力を集中していくようになる。以前は剣豪小説など自宅や通勤電車や昼食時などに楽しんでいたが、最近では小説はほとんど読まず、読んでいるのは合気道のためになるような本ばかりになった。

生きることも、また合気道の修行も、いずれ終焉を迎える。高齢者になれば、まずはこのことを自覚しなければならない。これは事実であるし、科学である。つまり、法則なのである。それ故、ここから人は逃げられない。人には、どうすることもできない。

しかし、人がやれることはある。やれることは、やるべきであろう。やるべきことは、最後の終焉に際して、自分は十分にやった、満足であると思えることである。他人から見れば違う意見かも知れないが、そんなことは関係ない。自分が満足できればよい。

合気道も、目標を達成できなかったかもしれないが、そこへ一歩でも近く辿りつこうと一所懸命に努力し、そのために時間を有効に使ったなら、よくやったと自分に言うほかはないだろう。

時間を惜しむことをしないで、余計なものに浪費すれば、最後の瞬間の楽しみが消えてしまうだろう。時間は、惜しんでいきたいものである。