【第796回】 古事記は法典
大先生は、合気は「古典の古事記の実行」であると言われている。「つまり古事記の宇宙の経綸の御教えに、神習いまして日々、練磨していくことです」
ということである。
そして大先生は、「我が国の法典たる古事記」と、古事記を法典と謂われておられるので、今回は、何故、古事記が法典になるのかを研究してみたいと思う。想像するに、古事記には、合気道と深い関係がある、合気道の教えになる事があると思うので、古事記のその箇所を拾い出し、合気道の関係を見てみたいと思う。初めに古事記の文章(省略した所もある)、次にブロックの太字で合気道への教えや解釈等を記す。尚、古事記の文は口語訳を使用した。
- 天地創造: 「タカアマハラにアメノミナカヌシが現われ、タカムスビ、カミムスビの三柱の神、ウマシアシカビヒコジ(下の國)、アメノトコタチ(タカアマハラ)。この5柱の神は別天つ神という。
次に、ウイジニ、妹スイジニ、ツノグイ、妹イクグイ、オホトノヂ、妹オホトノベ、オモダル、妹アヤカシコネ、つぎにイザナキ、妹イザナミ。
天つ神の命により、イザナキ、妹イザナミはアメノヌボコで漂っている地(くに)を修めまとめ固める。コヲロコヲロと?き回しオノコロ島を現わす。」
古事記は天地創造を記している。合気道はこの天地創造に合して技を生み出していくことになる。他でこのように天地創造を表してくれるものは見当たらない。
- 「イザナキ、妹イザナミがオノコロ島に天降りされ、国土(くにつち)を生み成そうとマグハイをするが、妹イザナミが先に言葉をかけて求めたためにヒルコを生んでしまう。天つ神の言葉に従って、イザナギが先に言葉をかけ、イザナミが応えると、アワヂノホノサワケの島、つぎにイヨノフタナジマが生まれた。」
合気道の技づかいでも、先にイザナギ(横、火)をつかい、その後イザナミ(縦、水)をつかわなければ不完全な上手くいかない技(ヒルコ)になってしまう。
- 「イザナミはホトを焼かれて神避ってしまう。そしてイザナギは神避ってしまったイザナミをひと目見ようと、黄泉の国へと追いかけていくが、イザナミの醜い姿を見てしまい逃げ出してしまう。シコメやイカズチ達に追われるのを、黄泉つ平坂の坂のふもとに辿り着き、桃の実を三つ取って投げつけると、みな逃げ帰ってしまった。」
合気道は顕界から降りて幽界で修業しなければならないということである。また、合気道の技づかいで、イザナギが投げた三つの桃の実はであると考える。
- 「しまいには、いよいよ妹イザナミが自ら追いかけてきた。そこでイザナギは、千人がかりで引いてようよう動かせるほどの大岩(千ひき岩)を、黄泉の平坂の中ほどに引き据えて塞いでしまう。そしてこの岩を中において話をすることになる。」
合気道に於いて、この千ひき岩が胸中であり、この岩によって体中・腹中の邪気(弱気、迷い気等)を止め、この上に来た気で体と技をつかう(剣で切ったり、投げたり決める)。
つまり、千ひき岩の胸の下は目に見えない幽界であり、上は目に見える顕界であると考える。
- 「葦原の中津国にようようと戻ってきたイザナギは、「われは、この身を禊をせねばならぬ」と云い、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に出て、禊ぎ祓いをした。其の時に投げ捨てた杖から成り出た神の名は、ツキタツフトナ・・・。このツキタツフトナからヘツカヒベラまでの神々は、身に着けた物を脱ぐことによって生まれた神であった。」
一仕事を終えたら禊をして古くなったものを捨てていかなければならない。これを合気道ではカスを取るという。新たなモノを得るためには、古いモノを捨てなければならない。肉体的と精神的なカスを取るためには禊ぎが必要になる。合気道は日々かわらなければならないというのはこの事であろう。「みそぎをしなければものは生まれて来ない。武産合気P.58」のである。
- 神界 顕界 幽界:
古事記は天地創造に始まり、多くの神様が活躍される神界、伊邪那美を迎えに行く伊邪那岐の黄泉の国の幽界、そしてこの世に国づくりをしていく顕界と、神界、幽界、顕界の三次元を舞台としており、このような壮大なものはない。
- ヤマタノオロチ:
時が経つと邪気がたまっていくから、それを払いのけなければならない。その邪気を払いのけられれば素晴らしいモノ(草薙の太刀)が出てくる。この太刀で邪気を払っていくことになる。合気道では、この草薙の太刀が合気道であるという。
- 天の浮橋:
●お二人は天の浮橋にお立ちになり、そのヌボコをズズッと下に向けて差しおろして・・・・
●「アマツヒコヒコホノニニギは・・・、天の浮橋に至り着き、しっかりとお立ちになると、そこからひと息に・・・、天降りなされた。」
「合気道は、どうしても「天の浮橋に立たして」の天の浮橋に立たなければなりなせん。これは一番のもとの親様大元霊、大神に帰一するために必要なのであります。またほかに何がなくとも、浮橋に立たねばならないのです。大神様に自己を無にして、自分は鎮魂帰神の行いにかなうように努めることであります。」と大先生は言われている。
- 天津神と国津神:
「葦原の中津国に降りた天津神の御子(アマツヒコヒコホノニニギ)は、天津神の力に加えて国つ神(コノハナノサクヤビメ)の力をも秘め宿した子をうることになった。」
合気道では、「天地の呼吸に合し、声と心と拍子が一致して言霊となり、一つの技となって飛び出すことが肝要」という。“子“を”技“と置き換えてみればいい。また、「天の息と地の息と合わして武技を生むのです。地の呼吸は潮の干満で、満干は天地の呼吸の交流によって息をするのであります。天の呼吸により地も呼吸するのであります」とも言われている。
- ウミヒコとヤマヒコ、潮簸珠と潮盈珠:
ヤマヒコが兄のウミヒコから借りた釣り針を探しにワダツミの宮に行き、トヨタマヒメと夫婦になる。探していた釣り針が見つかり、ワダツミから潮簸珠と潮盈珠を授けられて家に戻ってくる。
合気道では、潮簸珠と潮盈珠が大事であると教えられている。潮簸珠と 潮盈珠は顕界の地上界で得ることは出来ず、見えない世界の深海で得る事が出来るという事であろう。深海に当たる腹中で潮簸珠と潮盈珠を生み出すといことであると感得する。
古事記にはまだまだ合気道のための教えがあるはずだが、今回はここまでとする。私がちょっと見ただけでもこれだけの教えがあることが分かったわけだが、大先生のようなレベルとなれば無限の教えや宝を見つけられるだろうから、古事記は法典であるということがよく分かった次第である。
参考資料 『口語訳 古事記』三浦佑之訳・注釈 文藝春秋
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