【第674回】 合気道は武道である

開祖は、合気道を「合気道は従来の剣、槍、体術を宇宙の和合の理により悟ったものであるが、合気道は人に勝つためではなく、争いに勝ためでもなく、戦わずして勝つためでもない。」(合気神髄 P.109)と、過っての剣術や体術のように、敵を倒すために修業するものではないといわれている。
また、開祖は、合気道では腕力は必要ないと、「米糠三合持てる力があれば合気はできる」等とも言われている。
それで今は、合気道は愛であるとか、力でやらないとか言う人もおり、合気道は戦前までの武道とは大いに異なるようになったと思われている。

しかし、この考えは半分正しいと思うが、半分が欠けており、注意しなければならないと考える。
それは、結論から云えば、合気道は武道であるし、矛を止める武でなければならないということである。技を錬磨し、その技が矛(敵)を止める(制する)ものになるようになることである。その為には、しっかり持たせたり、打たせたり、抑える等のしっかりした稽古をやらなければならない。
大先生(開祖)の晩年でも、我々稽古人が、気が抜け、力を抜いた稽古をしているのを目にされると、烈火の如く叱られ、力一杯やるようにとお説教を頂いたものである。つまり、大先生は力を入れるな(力むな)とか、ぶつかるなとか言われてはおられたが、合気道は武道であるから力一杯、技が効くようにやりなさいといわれておられたのである。
また、大先生は、「真の武道は相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である。(合気神髄 P.173)」とも言われているのである。「相手を殲滅するだけではなく」とは、殲滅も出来なければならないという事であると思う。

そうすると問題が発生する。力一杯出して、技が効くように稽古をすれば、過っての柔術になっていくことである。合気道は、敵を殲滅するための武道ではないわけだから、矛盾することになるわけだ。

合気道は新しい武道である。まず、これまでの武道家が考えたこともないような、修業目標が掲げられたのである。それは宇宙との一体化である。その宇宙との一体化の方法は、宇宙の営みを形にした合気道の技を身につけていき、宇宙に近づくわけである。また、宇宙と一体となる技をつかうためには、魄(体)を土台の下にして魂(心、精神)で技と体をつかわなければならない。これまでの武道は魄が上になって、魄で技と体をつかっていたので、魄(力)優先になり、そして勝負・競争世界になっていたわけである。
更に、合気道の目的は、地上天国建設への生成化育のお手伝いである。地上そして宇宙を少しでも早く、神界や霊界のような天国を地上につくる生成化育に参加することである。

宇宙との一体化や地上天国建設のための生成化育のために合気道を稽古するわけだが、これでは矛を止める武道にはならないではないかという疑問を持つはずである。

この相反するような事を含めて修業するのが、新しい武道となる合気道であると考える。古くて新しい武道である。
これまでとどこがどう違うのかを説明してみる。
これまでの武道は、強くなるために力をつけ、体をつくり、技を練った。これが稽古の目標であったはずである。
新しい武道の合気道は、宇宙の法則を技と体に身につけ宇宙と一体化をしているわけだが、宇宙の法則が身に着けば着くほど上達したことになる。上達するに従って、力がつき、体ができ、技が効くようになるわけである。
つまり、「力がつき、体ができ、技が効くようにする」ことが、古い武道では「目的」になり、新しい武道の合気道では、「結果」ということになろう。
従って、合気道の修業では、宇宙との一体化を目標にし、その結果、「力がつき、体ができ、技が効くようにする」ようにならなければならないと考える。厳しく言えば、この結果が出るような稽古が武道としての合気道にも求められているのである。具体的な例として、「相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるような技づかいの稽古」であろう。もし、技が十分に効かなければ、それは稽古の目的である、宇宙の法則が十分身に着いていないことになり、まだ稽古不十分であり、修行をさらに続けなければならないということである。