【第98回】 絶対と言う真実はまだない

ひとは、特に若い頃に、一度は「人生とはなにか」に苦悶するだろう。しかしながら、会社勤めをし、家庭をもって子供を育てるようになると、そんなことを考える余裕もなくなるし、考えてもしょうがないと思うらしい。どうも、あまり考えないようになるようだ。

もし世の中に「絶対」というものがあれば、どれほど楽なことだろう。人生においても、合気道においても、「絶対」というものが存在していれば、何も迷わずにどんどん進むことができるだろう。

「絶対」というのは、絶対的な真善美であり、些かの誤り、邪、無駄がなく、誰もが信じるに足るものであろう。ひとはこれを神というのであろう。

もし「絶対」というものがあるとすれば、人生において、これはやればよい、これはやってはだめだと判断できるし、芸術でもよい悪いがすぐに評価され、哲学や宗教でも善悪がすぐわかり、宗教戦争もなくなるはずだ。

合気道では、試合がないこともあって、各自自由気儘にやっているし、自分が一番正当であると信じている。「絶対」があれば、どれが正当であるのかすぐわかるので、教える方も、習う人も楽であろう。

しかし、現実には「絶対」という真実はまだないのである。社会科学において「絶対」という真実がないだけではなく、自然科学においても「絶対」とい真実はまだないのである。原子や分子のミクロの世界でも、宇宙でも「絶対」はまだないといわれている。時間的、空間的に不変なものはないということでもある。

ひとは何か信じるものがないと、充実感をもって生きるのが難しい。そこで「絶対」に近いものを持とうとする。合気道を稽古していくにも、信じるものが必要である。強く信じることができれば、進歩があるし、少しぐらい問題が起きても、稽古を中断することなく長続きすることになる。

稽古をするための目標が、自分の人生にとって一番大切なものであれば、それが「絶対」になる。そしてこの「絶対」は、稽古だけでなく、人生の「絶対」でもあるはずだ。普遍的な「絶対」はまだ存在しないのだから、少なくとも自分だけの「絶対」で稽古をし、生きるべきであろうし、それしか出来ない。他人や周りの「絶対」に振り回されず、自分の「絶対」で生き、修行を続けていきたいものである。