【第664回】 喜んでもらえればうれしい

人は誰でも他人に喜んでもらえればうれしいものだ。仕事や勉学、芸、創作、活動、研究、発見等々で他人に喜んでもらえればうれしいはずである。子供はその典型で、親やまわりの人たちに褒められ、喜んでもらえば有頂天になる。
だから、人は出来るだけ他人に喜んでもらえるように頑張るし、頑張ろうとするはずである。しかし、多くの場合、いろいろな事情から、その意に反することになる場合もあるのは、多くの犯罪や事件をテレビや新聞を見れば分かるだろう。

合気道を長年やっているので、長老とまではいかなくとも、大先輩ということになり、後輩や仲間や生徒に少しでも喜んでもらいたいと思って頑張っている。勿論、人に喜んでもらうためにやっているのではない。自分のやった結果が評価され、それに喜んでもらえればいいということである。

人が喜ぶとはどういうことなのかを合気道的な立場から定義してみると、“宇宙完成へのお手伝いをした、している事やモノを見ることが喜びであり、どれだけそのお手伝いをしたのかによってその喜びの大きさが変わる”とする。合気道では、万有万物はそのための生成化育の使命をもってこの世にあらわれたといわれるからである。人が喜ぶというのは、宇宙天国への完成に寄与したり、それを促進したことの評価ということになるだろう。

しかしながら、人に喜んでもらうために仕事をしたり、稽古をしているだけでは宇宙天国建設の完成には近づかない。喜ばれない事をやる者もいるからである。喜ばれない事をやるとは、この生成化育を阻止したり、邪魔したりする事である。大局的見地のものと狭い見地のものがある。
宇宙天国建設の完成に少しでも近づけ、それが阻止されたり、邪魔されないために、嫌われることもしなければならない。駄目なモノは駄目、間違いは間違いと正さなければならない。例えば、道場で脚を投げ出しているとか、突っ立って話をしているとか、自主稽古でふざけて稽古をしているとか等々である。

大先生がご健在で稽古をされていた頃は、皆、間違いのないように気を付け、稽古に励んでいたし、何か間違いがあると先輩が注意をするという緊張感があった。それでも間違いがあって、それを大先生に見つかると、大先生に大目玉を食らったものである。しかし、大先生は間違いを起こした稽古人を直に怒るのではなく、そこに居た指導者や最古参の者に怒ったのである。私のせいで怒られた先生がいらしたが、その先生に申し訳ないと思うと同時に、大先生にその先生が叱られたことの意味がよく分かったのである。
例えば、もし、大先生が私を直接怒っていたとしたら、こちらは何も知らず、それでいいと思っていたわけだから、そんな初心者の私を叱ってもしょうがないだろうとか、そんならちゃんと教えてくれればいいのにとかと思い、頭を下げても心では反発したはずである。だからこの大先生の怒り方は見事な叱り方だったと感服している。

それ以来、大先生のしかり方を研究していたところ、『武産合気』に次のような文を見つけた。「悪をお前はダメだとこらしめるのではなくて、悪もよろこばして改心させる世界にする。」

この大先生のように、悪を駄目だと言って懲らしめるのではなく、悪を働いた者を喜ばして改心させなければならないのである。
これも喜んでもらえればうれしいということであり、私の体験にもあるように、その喜びは更に大きいものなのである。
悪を懲らしめるにあたっても、喜んでもらえれば更に嬉しいだろう。