【第651回】 存在感はあるが主張はしない

先日、テレビである画家の作品を紹介していたが、その紹介の中の言葉に、この画家の絵は、「存在感はあるが主張はしない」というのがあり、その言葉が頭に残って、気になっていたので一寸考えてみることにした。

人はそもそも存在感がなければ生きていけないだろう。自分はこの世の顕界に生きているのだということである。だから、もしその存在感が無くなったとしたら生きていくのは難しいはずである。
昔の村で掟をやぶって受ける厳しい刑罰に「村八分」があった。その掟を破った者は、村人とも人とも扱われず、空気のように無視された。これは己の存在感がないことになり、非常に過酷なもので、恐らく生きる意欲は無くなっていったことだろう。

人は通常生きていくためにも存在感が必要だだから、学業でも仕事でも存在感を持とうとする。いい成績を上げて認められようとか、人より強くなろうとか、上手くなろうとか、一番になろうとかで、自分の存在感を持つとともに、他の人たちに、己の存在感を示したいと思うものだ。
私は存在感があると、主張したくなるわけである。これは普通であるが、その存在感の実態にそぐわない主張をすると嫌われることになる。本当に実力が無い者は得てしてこれをやる。人だけではなく、モノでも存在感が余りないのに宣伝やコマーショルで主張する場合である。

合気道の修業者、武道の修行者にも存在感のある方はおられる。われわれ周りからその存在感をもつ(感じる)ことは、ご本人は確実に、そして我々が思っている数倍の存在感を持たれているはずである。
そしてその存在感を主張する方も居られるし、余り主張しない方もおられる。それは本人次第という事である。

しかし、合気道では、「存在感はあるが、主張しない」が理想であると考える。それは合気道に大きな影響を与え、開祖植芝盛平先生も我々に勉強するように推奨されている「古事記」に、その解答があると思う。
それは最大の存在感があるモノは、何もしない、つまり主張しないということである。それで全体が上手く機能するからである。

例えば、造化の三神である、天の御中主、高御産巣日、神産巣日であるが、高御産巣日、神産巣日は古事記の中でもいろいろと活躍されるが、天の御中主は、造化の三神のトップにあり、存在感はあるにも関わらず、何も主張されないのである。天の御中主が何も主張しないで居られることによって、高御産巣日、神産巣日は活躍することができるということなのである。

次に、三貴神である天照大御神、月読大御神(つくよみのおおみかみ)、須佐之男(すさのう)大御神である。天照大御神と須佐之男大御神は、お互いに争ったり、また、いろいろな仕事をし、その存在感があるが、月読大御神は、存在感はあるが主張はしていない。これも月読大御神は存在感はあるが、何も主張されなかったので、天照大御神と須佐之男大御神は活躍できたということになろう。

三つ目は、赤玉、白玉、青玉(真澄の玉)の三つの神宝である。赤玉、白玉、は天地の呼吸で塩盈珠、塩涸珠として十字に働いてくれ、その存在感があることもその働きも実感できるが、青玉(真澄の玉)の働き、つまり主張は、上記の月読大御神や天の御中主のようにないようである。

合気道でも存在感を持つように修業をしなければつまらないだろう。しかし、存在感を持っても、主張する必要はない。自分自身が存在感を持てば、その内に、主張しなくとも、他人がその存在感に気づいていくはずである。他人がそれに気づいてくれなければ、大した存在感ではなかったわけだから消滅するだけの話である。
この「存在感はあるが主張はしない」画家は、死後10年経って、その絵が世に認められたのだが、死後10年にして主張したことになる。主張しなくとも、主張したのである。
合気道の修業も、これを目指して行かなければならないと思った次第である。