【第632回】 根本的な問題 その1.高齢者の孤独

今、高齢者の孤独が問題になっている。孤立した生活、閉じ籠りや孤独死などである。この問題は高齢者の増加にも依るだろうが、そこには何か根本的な問題が潜んでおり、その根本を直していかなければ解決できないように思う。それは合気道での技の上達と同じである。表面に出てきた問題とか、枝葉末節をいじくりまわしても解決しないのである。

高齢者の最大の問題、悲劇と言ってもいい問題は、定年後に楽しみにしていた生き方ができないことだと思う。定年近くなると、誰でも、あそこにいってみようとか、あれをやってみよう等と夢みるはずだが、それができなくなることである。
さらに悲劇なのは、自分以外の多くの高齢者が、定年後も楽しそうに暮らしていることである。自分だけが駄目なんだ、だからどうしようもないと閉じ籠ったり、孤立していっていることであるように思う。
つまり、孤独にならない高齢者もいることである。高齢者の全員が孤独になるなら、諦めも着くだろうが、自分だけなので悲劇なのである。

この高齢者の問題の根源は、人も自分も気づかずに、また、無意識のうちに、これまで「労働力」として生きてきたことだと考える。学校ではいい労働力になろうと勉強し、会社でもいい労働力になろうと頑張てきたはずである。学校は生徒を少しでもいい労働力になるように育成し、社会(会社、組織)も人を労働力とみなし、人を労働力で評価しているのである。

社会で働いている間は、労働力があるので、社会は受け入れてくれるわけだが、定年になって労働力がなくなれば、社会は労働力のない人には関心がなく、無視することになる。
労働力を提供することによって、社会の一員として諸々のサービスを受けてきたわけだが、定年になって、その労働力が提供できなくなると、社会は労働力のない人は必要なくなり、興味がなくなるから、労働力を失った人は孤独になり、孤立することになるわけである。

頭が良いとか、有能だなどは、大体が労働力としての評価である。これは会社や組織にある間は重要である。だから、お金が沢山もらえるのである。
高齢になって、会社などの組織から離れれば、労働力での評価は誰も関心を持たない。しかし、定年になっても、中にはかっての労働力評価、例えば、名のある会社の部長だったとか、役員だったなどとひけらかしたりするが、誰も関心を示さないし、逆に反感を買ってしまう。これも本人を孤独にしてしまうことになる。

街には、多くの孤独に見える高齢者を見掛けるが、私にはその人たちを救済することはできない。それよりもこれからの若者や後進たちが、高齢者になって、孤独で寂しい暮らしをしないようにしたいと願い、何とかしたいものだと思っているのである。
この論文も、若者や後進たちに少しでもその参考になればいい。
しかし、難しい。何故ならば、学校も会社もいい労働力を必要としているわけだからである。幸せな人をつくるための教育をし、幸せに暮らせるために働いてもらう会社になるには、まだまだ時間がかかりそうだからである。

だから、若者たちには、その学校や社会の流れに流されないよう、定年後の40,50年も孤独や淋しさや侘しさのない、楽しい暮らしができるように、どうすればいいのかを考えながら、学校では勉強し、会社では働いて欲しいと願っている。