【第63回】 ぶつかることから学ぶ

近年、人は他人と接することや付き合いが少なくなってきている。人と接するといろいろ煩わしいことがあるので、それを避けるためか、人とぶつかりあうのが嫌なので避けているのだと思われる。少し前までは、だれの家も外から中の様子が見えるほど見通しが良かったし、誰が何をしているのか、どういう状態なのかよくわかっていたものだ。今の住宅は、外から中の様子がぜんぜん分からないし、安全性を重んじる砦のようなものが多い。これは、他人や外からの接触を拒否する意思表示と思える。

昔は、近所の人たちと仲良く、時としてぶつかりあいながらやってきた。嫌なこと、煩わしいこともあったが、全体としてはうまくやっていけていたように思われる。地域の人が他人の子どもの面倒をみてくれたり、高齢者の世話もしてくれた。ところが現在、特に都会では、近所付き合いもせずに一人または一家族で生活する傾向があって、昔はなかったような問題も起きている。子どもの非行や、孤独死などの老人問題等である。もし、かれらが近所や地域の人たちと、時には煩わしくとも、又たとえぶつかり合うことがあっても、付き合いをしていれば、そのような問題は大分解消されるのではないかと考える。

合気道の稽古でも、相手とぶつかるのを恐れてはじめから逃げていては、技はかからない。技をかけるために必要なのは、まずぶつかることである。ぶつかって、そしてぶつからないようにするのである。つまり、まず気の体当たり、次に体の体当たり、そして入身、転換となる。開祖がいらしたころの正面打ちでの一教でも入身投げでも、打つ方もそうだが、受ける側も相手の手を力いっぱい打ったものだ。それ故、はじめの頃は手(尺骨)がいつもはれていた。たまたま手が痛いので痛くないように打たせず(今のように)手を滑らせるようにするところを開祖に見つかったりすると、お目玉を頂戴した。

社会がぶつかり合いを避けた結果、それより大きな問題が起り、合気道でもぶつかり合うのを避けるために、結局いい結果を得られないことになってしまう。 ぶつかることを恐れずに、近所、地域、日本中の誰とでも、世界の人とも逃げずに、ぶつかっていきたいものである。また、合気道の稽古でも、まずはぶつかっていきたいものである。ぶつかったところからきっと何か学べるし、成果を得られるだろう。