【第628回】 もう一度、人生・合気道を考える

現代社会は合理性、効率性、経済性を優先し、その極限まで追求しているようであるが、人も社会も世界も、それほど幸せそうには見えない。
若い頃は、会社のためとか、社会のためとかということで、そんな方向で仕事をし、生きてきたが、年を取って、あと何年生きるか分からないようになると、自分に取っては関係ないというより、反感を持つようになる。若い内は合理性、効率性、経済性を優先して働き、生きていくのは仕方がないと思うが、社会の組織に最早所属していない、個人の高齢者が合理性、効率性、経済性を優先して生きるのは、おかしな話である。服装を見ても、これ以上、合理的、効率的、経済的な服装はないだろうと思うものを着ている。それもほとんどの高齢者がそうなのである。ラフな服装にスニーカーを履き、リュックサックを背負ったり、工事現場に入ったとしても惜しくないような合理的、効率的、経済的な服装なのである。そしてそれが一般化しているのである。
そして問題は、一般化に属しないと、世の中、生きづらいだろうということである。

合理性、効率性、経済性を優先する世の中は便利になる。しかしそれを喜んでばかりはいられない。何故ならば、便利になればなるほど、人は身体も頭も使わなくなるからである。人の頭と体を煩わせなくてもいい、便利な技術や製品がぞくぞくと出てきているのである。その内、自分の部屋のボタンを一つ押すだけで、衣食住の用事が方付き、寝たまま、坐ったまま何処へでも行けるようになるかも知れない。そうなれば、それに必要な体の機能は、指先一本だけということになる。世の中、この方向に進んでいる。

先述のように、合理性、効率性、経済性など、先の短い自分に取っては関係ないというより、反感を持つようになるから、意識して合理性、効率性、経済性の一般化潮流には逆らうことにしている。着るものは極力、手間もかかる和服を着るようにしている。仕事(機械レポート、合気道の論文、炊事選択、掃除、等)も効率など考えず、いいもの、満足がいくように、十分手間をかけ、買い物なども本当に欲しいモノ、ストリーや作り手の心が感じられるモノ、安いモノではなく自分がいいと思うもの買うようにしている。そしてどちらか迷ったら、値段の高い方を買うことにしている等である。

合理性、効率性、経済性には興味がない。そんなことに迎合する気もないし、余裕もない。お迎えが来るまでやっておくべきことがあるだろう。例えば、人生って何?である。この問題を未解決のまま、あちらに行ってしまえば、自分の人生に満足できずに、心残りのままいくことになると思う。
この「人生とは何」は高齢者にしか考える余裕はないはずである。子育てや会社人間には、そんな余裕はないはずである。

人世と同じように、合気道の高齢者は、合気道って何を考えるべきだろう。これも、相手を投げて喜んでいる若い後進達にはできないことである。その答えが見つからなければ、後で後悔するはずである。

高齢者はもう一度、人生とは何か、合気道とは何かを考えてみたらいいだろう。そしてそれを後進達へ継承するのである。これが先ほどの問いの答え、高齢者の人生や合気道であると考える。


参考文献  『半分生きて、半分死んでいる』(養老猛著 PHP新書)