【第617回】 日一日新たな発見

人は長生きしたいと思うし、死にたくないはずである。人だけではなく動物にもそのような本能があるだろう。死の危険を感じれば、そうはさせじと必ず対抗してくる。はいそうですかと首を差し出すなどという例を聞いたことがない。
みんな長生きしたいのである。これを生物の本能というのだろう。本能というのは生物の創造主の意志ということになるだろう。この創造主は合気道的に云えば、宇宙を創り、万有万物を創り、宇宙楽園建設を生成化育している一元の大神ということになる。

注:科学がどんなに発達したといっても、宇宙がどのように、なんの為にできたのかを説明できない。合気道の教えが今のところ最先端のように思う。

長生きと言っても、人は精々125才ぐらいまでしか生きられないといわれるが、長生きとは、そこまで生きないまでも、自分が十分生きたということではないかと考える。だから個人差がある。一般的には、子供や若者は長生きしたなどとは思わないはずであるから、やはり80,90以上の高齢者に言えることだろう。長生きしたと思うのは、人が人として経験する一般的な経験をし、自分がしたかった事や、やるべき事を十分にやったことであろう。合気道的に云えば、自分の使命を果たしたということになるだろう。

長生きしたいという事は本能だけで片づけたのでは、面白くないし、満足できないだろう。何故、人は長生きしたいと無理してでも頑張るのか、その理由を見つけたい。
理由はいろいろあるだろう。ここで死んでは家族や会社に迷惑がかかるとか、家族や周りが悲しむだろうし、これから何もしてあげられないとか、自分の周りに対しての理由があるだろう。

長生きする、したいと思うもう片方の理由は、周りではなく、自分自身に対しての理由である。それは明日も新たな発見をすることであり、変わっていく自分を見る事である。変わっていくという事は、新しい発見があるということである。
このことは、日々己が変わっていくことに長生きの意味があるという事である。もし、昨日も今日も、去年も今年も新しい発見がなければ、己は変わらないから、いつ死んでも同じだから、長生きする意味は半減することになる。

長生きには、一般的な生活のほか、我々の世界の合気道での長生きもあるだろう。合気道修業も長生きが大事であるが、長生きするのは容易ではない。これは一般生活の比ではない。それは他の武道、芸道などでも非常に厳しいはずである。
合気道修業で長生きとは、長く修業を続けることであるが、長生きするために、日々新たな発見をしていくことだと考える。理論や技だけではなく、技をつかう身体の新しい発見もしていかなければならない。だから体が動かなくなるのを年のせいにしているようでは、長生きはできないだろう。

新たな発見をしていかなければ長生きはできないと書いたわけだが、自分は新たな発見など、生活でも合気道でもやっていないからと長生きを諦める必要はない。何故なら、実際は誰もが新しい発見をして、変わっているはずであるからである。ただ、それに気が付いていないし、意識していないだけなのである。
その証拠に、今、お前の命を頂戴すると凶器を突き付ければ、必ず反抗したり、逃げるはずである。明日の新たな発見、己が変わることを見たいと長生きしたいからである。
高齢者になったら、残り少なくなってくるわけだから、意識的に、日一日新たな発見をしていき、長生きを楽しみたいものである。