【第601回】 高齢者らしく

定年前の会社勤めの時は、仕事を辞めたら時間ができるが、これまでのように充実した生き方ができるかどうか不安だった。幸い合気道を続けていて、最低の支えはあったので、合気道を中心にやっていけば何とかなるだろうとは思っていた。
それから1,2年経って、やっと新しい生活に馴染んできたし、新しい生き方、考えも出来てきて落ち着いてきた。

仕事時代と違うのは、まず、時間が自由に使えることである。会社勤めの時は、週5日は会社、1日9時間以上は仕事のために使っていた。
今は毎週、毎日24時間を自由に使える。

この時間的自由で、考え、実行していることがある。
時間があり、時間を自由につかうことができるということの裏には、負の面がある。それが多くの高齢者の新生活を失敗させていることであると考える。
つまり、この自由を有意義にするためには、不自由、つまり、自由な制約、束縛を自らつくらなければならないということである。自由は不自由な束縛があって、自由なのである。
この制約や束縛は、以前の会社勤めのときの、他から与えられるものではなく、自ら与えるものである。心地よい制約、束縛である。例えば、朝は7時に起きる。禊ぎをする。朝食を取る。トイレにいく。1日一度は外に出る。12時までに床に就く等‥自らの制約・束縛を課すのである。これが生活の枠組みになり、この枠組みで生活していくことになる。束縛があることによる自由である。

この枠組みの中には、週3日の道場稽古が入り、毎月ドイツに送る論文を2編書いている。それに合気道の論文を毎週4編書いているので結構忙しい。
当初の時間的な不安はなくなったのはいいが、以前より忙しくなり、生活の密度が濃くなり、生きているという実感と喜びを持つことができたようである。

今度は高齢者として、以前よりいい、以前にはできなかったことをして、高齢者時代で楽しみたいと考えている。
まず、会社関係や経済社会の目を気にしなくともいい生き方ができることである。人に迷惑を掛けない限り、もう遠慮することはないのである。髪、服装、履物、食べ物、趣味などなど好きにできる。

好きにやるためには、自己規制が必要になる。自己規制がなくて、好き勝手にやれば、メチャクチャ、支離滅裂になってしまい、決して満足することはできないはずである。

好き勝手にやるための自己規制として、まず、やるなら、ベストをつくすこと、集中することである。緊張を伴う、自分との挑戦となる。これまでのような他人の目ではなく、自分との戦いである。他人は誤魔化せても自分は誤魔化せないから、自分に勝つのは容易ではない。

仕事、買い物、食べ物、お洒落でも、自分で最高の仕事をし、その状況(財布の中身や持てる量等)で最高のモノを買い、最高のモノを食べるようにする。若い頃のように、早くてそこの浅い仕事をしないよう、また安さをもとめたモノを求めないということである。とりわけ、年を取ってくると食べ物は淡泊、着るものはラフで単調なものになりがちなので、出来るだけ上を狙っていくべきだと思っている。それ故、もし迷ったらば、上のものを選ぶと決めている。

若者は着るものに気を使わなくとも、どんなものを着ても様になる。それは若さが補うからである。高齢者は容姿が衰え、外形的な魅力は薄れてくる。着るものによって補うのが無難なのである。お洒落な高齢者は魅力的で、見惚れてしまい、自分もそうなりたいと思う。

しかし、知恵や経験が本当に豊かならば、この見えないもので、高齢の容姿を包み込み魅力的な人間に見せる着ものとなるはずである。
こうなりたいところだが、これは容易でないようなので、取り敢えず、着るもので補うことにした方がいいと考えている。
最近は、若い頃には着ることがなかった和服を着るようにした。ちょっと緊張するが、周りは高齢者として見てくれているようだ。(写真)
これからは、できるだけ高齢者らしく、高齢者になったからできる生き方をしていきたいと考えている次第である。