合気道を50数年稽古しているが、今、本当に合気道を楽しんでいる。これまでも、合気道を楽しんできたつもりであるが、今と比べると雲泥の差である。若い頃は、思いっきり体を動かし、動けなくなるまで稽古をし、汗をたっぷりかくことに稽古の充実感を味わい、稽古相手を投げたり、倒したりして喜んでいた。若い頃は、自分のエネルギーを発散することと、他人よりも少しでも強くなろうと稽古をしたわけである。
今思えば幼稚な稽古をしたわけではあるが、若い頃はそのような稽古しかできなかったと思う。だから、若い時にやるべき事はやった、そしてあれでいいと思っている。一日の大半は仕事に取られてしまったし、ま、合気道の事も世間の事もよくわからなかったわけだから、幼稚な稽古しかできなかったわけである。
今は、会社に行くこともなく、時間は自由でたっぷりあるから、十分に合気道に当てることができる。まずは開祖のお考えや哲学を探究し、合気道を勉強する。そして勉強したことを道場で試し、確認しながら己の合気道を深めようとしている。
お陰で、若い頃には想像もできなかった世界や次元で稽古ができるようになり、合気道を心から味わって楽しんでいる。これが合気道を本当に味わっているということだと思う。
高齢者になって、合気道を本当に味わうようになると、他のモノも心から味わうことが出来るようになる。例えば、食べ物、読書、人情、相撲、絵画、芸能などなどである。
若い頃は忙しく、損得や優劣でモノを見たり、モノを判断してしまうものだが、年を取ってくると、その必要もなくなるし、また先が見えてくるので、モノの本質を見ようとするし、相対的ではなく絶対的なモノを見ようとするようになるからだと思う。
若い頃は、目に見えるモノしか興味がなかったし、また分からなかったが、年を取ると見えないものが見えてくるようになる。
それに自分の人生が見えてくるので、人の淋しさや侘しさがわかってくる。しかし、半面、人生のすばらしさ、生きる価値が見えてくる。笑ったり、涙を流すことが多くなる。
高齢者は自由である。時間と考えの自由である。若い頃は、会社や社会の時間と考えに縛られていたわけだが、もうその束縛はない。これまではその束縛によって、物事を本当に味わうことは難しかったが、高齢者になれば本当に味わうことができるようになる。高齢者万歳である。