年を取ったら何を楽しみに生きるのだろうかと思っていたが、それが見つかったようだ。若い頃は、合気道を稽古しているから、それが生きる支えと、動力になっていたし、年を取っても合気道の稽古で十分に生きていけると思っていた。確かに、合気道のお蔭で、これまで楽しく、有意義に生きてきたし、退職後の生活も楽しくやっていると言える。
しかしながら、週に3日の稽古だけでは、心から本当に生きているという気持ちにはならない。そこで数年前から、毎朝1時間ほどの稽古をし始めた。木刀、杖、鍛錬棒の素振り、四股踏み、柔軟体操などである。当時は屋上がつかえたので、雨や雪が降らなければ毎日やった。
一年前に今のマンションに引っ越したので、10丈ほどの部屋で稽古をしている。狭いし天井も低いので、木刀の代わりに脇差ほどの木剣で片手切り、窓の外に向けて杖の突き、鍛錬棒は座っての素振り、四股、柔軟運動、舟漕ぎ運動、祈り(詔)等である。
最近この朝稽古から分かったことは、この朝稽古は単なる体操ではなく、大先生が言われる「禊ぎ」であるということである。一般の体操のように、体を柔らかくしたり、強化するだけではなく、肉体的なカスを取り、そして精神的なカスを取るのである。
因みに、道場での形稽古も禊である。合気道は禊であると、大先生は云われている。
禊ぎと思ってやれば、終わった後の肉体的および精神的な清々しさは体操としてやるのとは大きく違う。また、体と心と宇宙との対話をするようになり、禊ぎの必要なところも教えてくれる。そして知らない世界に導いてくれる。
毎日、禊をしていくと、知らない世界に出会う。自分の体の中の小さな世界であったり、天や宇宙という大きな世界である。以前は毎日という事はなかったが、最近では、ほぼ毎日知らない世界、新しい世界に入っている。朝、目が覚めて、今朝はどんな世界と出会うのかが楽しみになる。朝稽古としてやっていた頃は、時として、やりたくないと思ったり、雨や雪が降っていないかと期待したり、その体操を義務感でやっていたのだが、禊ぎになった今は、やる事が楽しみだし、もし、やらなければ一日気持ちが悪い。これは大先生がよくいわれていたが、そのお気持ちがわかるようになった。
毎日、知らない世界に出会えるから、長生きすれば、知らない世界をそれだけ沢山知ることになる。長生きすればするほど未知の世界を知り、道場での稽古でいい技がつかえることになるはずである。
少しでも長生きしなければと思う次第である。