【第588回】 時間よ止まれ

あっという間に喜寿になった。生まれて76年経つわけである。豊臣秀吉の「夢のまた夢」の気持ちが良くわかる。
子供のころは時間の経つのが遅かった。一日一日が長かったし、長過ぎた。永遠に子供のままではないかとさえ思ったし、時間がどんどん過ぎてくれて早く大人になりたかった。

そしてその後の時間の速度は、年とともにどんどん早くなってきた。今の速さは超特急なみである。今は7月であるが、7月、8月など暑い暑いと言ったり、夏休みで浮かれている間にすぐに終わってしまい9月、10月の秋になる。秋になれば、今年もほぼ終盤で12月などすぐに来てしまう。そして来年は更に加速してまた一年が経ってしまうはずである。

これまでは、ああ今年も半年が過ぎてしまったとか、また一年があっという間に終わってしまったとか、時が過ぎていくことに感傷的だったようだが、最近は、その経過した時間でこんなことしかできなかったのか、ということを嘆くようになった。

時間を意識するということは、終わりの時を意識することだろう。いずれ近い内にお迎えが来るわけだから、それまでにやりたい事とやるべき事を少しでも沢山やろうと思っていることではないだろうか。
人生の幕を引く際、思い残すことがないように、時間を使おうとしているわけである。やりたい事は十分できたのか、行きたいところには行ったのか、食べたいものは食べたのか等である。

私の場合、日常の人生に関しては十分に楽しんだと思うし、いつお迎えが来ても満足の笑顔でお迎えを迎えることができそうだ。
しかし、私にはもう一つの人生、合気人生がある。この合気人生に関しては、まだまだやりたい事、やるべき事があるので、お迎えをまだもう少し控えて貰いたいし、時間が欲しいと願っている。最近になってようやく、合気道というものが分かりかけてきたので、もう少し勉強し、研究し、稽古をし、それを後進達のために残してやりたいと思っているのである。合気道創始者の残された、すばらしい遺産を後世に残すお手伝いをしたいのである。これは開祖と直に接した者でなければできない仕事であると思うからである。

自分一人ですべての研究をやり遂げることはできないので、後進達に委ねるしかない。それ故、後進達が合気道を更に研究していくための礎になればいいと思うのである。技という形だけでなく、文字で残すのである。
過去にあった人類の遺産といってもいいような武術の多くが、消えてしまったのは、一子相伝とか口伝とかで、文字で残しておかなかったからだと考える。文字にしておけば、後世に残り、誰かが研究を続けたはずである。
その研究に意味があり、価値があれば残るし、無ければ消えればいいだけである。取りあえず書いて残さねばならない。判断は後世の後進達が行なえばいい。

こちらは勉強し、研究し、稽古をし、そして残すのが仕事。時間は限られている。開祖が云われているように、合気道の修業に終わりはない。修業の終わるまで勉強・研究である。どこまでできるのか。それは時間との戦いということにもある。
今は、秀吉の歌「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」の鑑賞などに耽ってなどいられない。時間よ止まれという心境である。