【第551回】 ただ生を長らえる生き方はしたくない

まだ経験がないので、死に関しては偉そうなことがいえないが、年を取ってくるとますます死という事を意識するようになることは確かである。死を意識するようになると、生ということも意識するようになる。合気道の教えにある、物事は表裏一体であり、決して片面だけということはないのである。だから、生だけを考えたり、死だけを恐ろしがっていては不自然であり、いいことはないはずだ。

今、日本には100歳以上の方が5万人以上居られるという。また、65才以上の人は、間もなく人口の三分の一(30%)になるという。
100歳以上でまだまだ活躍されている方も居られるが、多くの方は、寝たきりだったり、足腰が衰えてやっと歩いたり、動くのがままならない暮らしをしているのだろう。

自分が子供のころは、長寿を称賛していたし、長寿国日本を誇りに思ったものである。しかし、最早、長寿がいいということではなく、長寿でも健康長寿という長寿に意味があるようになったのである。
事情によって、病気や植物人間として長生きせざるを得ない長寿者もおられるだろうが、自分としては、何時まで生きるかに関係なく、健康で生きたいと願っている。

更に、生きる目標を持ち、その目標に向かって生きたいと思っており、そのために長生きしたいものだと考えている。
その目標とは、勿論、合気道である。大げさに言えば、「合気道に長寿を託す」ということになる。

これまでは、合気道は好きなように、気ままに稽古をしてきた。
だが、高齢者、後期高齢者となると、いずれ近い内にお迎えが来ることを実感するようになる。そして、これまでいろいろな事を教わり、お世話になった合気道にお返ししなければならないと思うようになってくるのである。
後進に自分が学んだこと、研究したこと、また、大先生や先生、先輩から教わったことを残しておかなければならないと思うのである。
残すためには、後進、後輩に技として伝えるのと別に、書いて文字で残さなければならないと思う。文字や映像など目で見えないもの、耳で聞こえないものはいずれ消滅してしまうからである。それは歴史が示している。

自分が残したものが、価値があるものかどうか、それを決めるのは後進たちであり、後の時代である。価値がなければ消滅していくだけである。それはあまり気にせずに、自分はやることをやるだけだ。

大先生をはじめ、二代目吉祥丸道主も有川定輝先生も、合気道に人生を託されておられた。食べることも、読書も、お金も時間も労力も、すべて合気道に向けられておられたはずである。毎日、合気の道を突き進み、新しい境地、新たな技を見つけ、それらを我々に教えて下さっていたのである。その教えを我々が引き継ぎ、そして後進たちに残していかなければならない。

道にのると、後は目標に向かって進むだけである。進めば新たな教えに出会い、新たな発見がある。発見と云っても、もともとあるものに気が付いただけであるが、それでも嬉しいものである。その発見を後進に継承し、後進にも役立ててほしいと思うのである。

これがいつまで続くか。それは分からない。だからいい。
ひとつ分かっていることは、合気の道が進めなくなったり、稽古ができなくなったり、また、今、書き続けている論文が書けなくなったとき、お迎えが来るはずである。
合気道の精進をせず、論文も書かずに生き長らえさしてはくれないだろうし、生き長らえたいとは思わない。