【第550回】 人として生きる

仕事も止めて、高齢者と云われるようになると、大体の人は、時間が潤沢につかえるようになるし、又買うものも少なくなってきて年金が入るので、経済的にも心配はなくなるようだ。
また、働いている間は、会社や業界関係の社会の組織にあるので、社会とのしがらみがあり、時には意に反することもしなければならならなかったが、その必要もなくなる。

高齢になって、定年になれば、経済的な安定基盤の上で、社会とのしがらみもなくなり、時間もできるから、好きな事を好きなように、やりたいことを自由にする生き方ができるようになるだろう。

しかし、定年退職した人たちを多く街でよく見かけるが、定年後を享受し、楽しく、喜んで生きているという感じがしない。恐らく、仕事をしていた時の方が、生きているという実感と満足をもって生きていたように見える。

我々が子供だった頃は、まだ、人生は50、60年だったわけだから、人が平均80才、90才まで生きるなど、本人たちも、国も社会も予想していなかったことであろう。それ故、60才、65才で定年になり、その後20年、30年をそれまでと違って、仕事をしないでどのように生きていけばいいのか等の準備もないし、例もないので、右往左往していると思える。今は初体験という時期で、これから経験を積んで、定年後の生き方の準備していくことになるのだろう。

折角の人生である、仕事を終わった後の人生も、有意義に過ごしたいものである。有意義というのは、お迎えが来た際に、後悔しない、これでよかったと云える生き方である。

定年後の残りの人生ほど、好きなことが、好きなようにできる時期はないはずである。只、多少問題があるとすれば、健康と体力だろうが、健康と体力に合わせて、好きな事を好きなようにやればいいわけである。これは高齢の合気道同士がやっていることである。

好きな事ややりたい事は人によって違うわけだが、合気道を修業していく者として、合気道同士および合気道を稽古していない方々に、提案する生き方ある。それは「人として生きる」ことである。人の本来の姿、人のあるべき姿を追及することである。

人は本来、正しく、美しく、楽しく、そして建設的に生きようと希望しているはずである。厳しい競争社会にある若い時期は、いろいろなしがらみがあり、それが出来ない事が大半であるが、年を取ると社会からのしがらみを取り除いていけるので、それができるようになるはずである。
合気道では、真善美の探究をすることであり、地上楽園、宇宙天国建設のお手伝いをしていくことである。合気道においても、長年稽古を志、年を取ってできるようになることである。

そのためには、目に見えるものを追うのを止めることである。目に見えるものを追う限り、しがらみができ、争いが起こるのである。これは合気道の稽古でよくわかるはずである。
目に見えないモノ、心を大事にすることである。幼い子供のように、親や動物、植物の心に感動する心である。

綺麗なものに目を輝かせ、美しい音に感動し、正しいことに感激する、本来あるべき人に成るよう、人として生きることができるよう、人生後半の時期を過ごしたいものである。