【第548回】 形(かた)を見直す

人間は一人では生きられないので、人が共に生きていくための社会をつくっている。
社会は一人で生きられない人のために、いろいろやってくれるが、人はその代償を払わなければならないし、その社会のために働かなくてはならない。

社会が上手く機能するために、形(かた)が形成される。司法、行政、政治、学界、産業界などの組織であり、学校や企業の組織運営などである。
社会は、これらの形がある程度かたまり、そして重なり合って機能しているから、その中にある人もそれらの形の中にあることになる。

学校にいって勉強し、そして企業や組織に入って仕事をしている間は、その人の生活の形はその人なりに、ほぼ決まっているはずである。生活の形とは、時間と空間の形である。何時に起きて、どこで、勉強したり働いたりするかが、基本的にはほぼ決まっているということである。

学校を中退したり、会社を辞めても同じだが、高齢者になって、会社を辞めると、それまでの形はなくなってしまう。
学校に通ったり、会社で働いている時は、誰でも今の形に縛られていることに苦痛を感じたり、この形から離れて、自由になりたいものだと願うものだが、いざ、その形がなくなって自由になると、戸惑ったり寂しく、そしてその形が懐かしくなるものだ。

人には形が必要であるようだ。定年退職して、形から抜け自由になって喜べるのも、せいぜい半年ぐらいだろう。後は、以前のような形が恋しくなるものである。自分の周りの退職した高齢者を見ればわかるだろう。

満足している高齢者の顔を見ると、その人は自分の形に生きていると思える。何時も定刻に寝起きし、食事をし、体操や散歩をプログラム通りにやり、稽古や研究などやるべきことをきちっとやっているはずである。一見、自由で形がないようでも、自由の形の中に生きているはずである。自由の形とは、他者がきめるのではなく、己でつくる形である。

合気道の稽古も形稽古である。形は基本であり、大事である。形を大事にしなければ、技が身に着かないし、上達もないのである。
合気道で、形を大事にするためには、合気道の稽古に目標を持ち、それに挑戦することである。形がない、または大事にしていない稽古は、合気道にしっかりした目標をもっていないことになる。

一般社会でも、自分のやるべきことを意識して、生きていくならば、形がなければいけないはずである。この形は「型」であり、生きるスタイルである。
人にはそれぞれ使命があると、合気道では教えられている。自分の使命、自分のやるべき事、やりたい事をやるようにすれば、自分の形ができ、その形で生きるようになるはずである。ただ、寝て起きて、息をしているだけの形ではつまらない。