【第544回】 高齢者の生きる力

若い頃から、生きること、生きていること、死ぬことなどを考えてきた。そして高齢者まで確信したことがある。それは、

また、半信半疑、つまり、半分信じるが、半分は確信できず、それは高齢者になり、死ぬまで分かろうとしたことである。それは、 等である。

しかしながら、後期高齢者になって、身内(家内)を亡くすと、それまで確信をもっていたはずの「人は必ず死ぬ」など忘れたかのように、心乱れ、落ち込んでしまった。
「人は必ず死ぬ」わけだから、身内が死ぬのも当然で、心乱したり、悲嘆にくれるのはおかしいわけである。
そこで、若い時に考え、確信したことは何だったのか、それは無駄だったのか、意味がなかったのかと考えてしまった。

しかし、それは無駄ではなかったと思う。若い頃の考え、確信が高齢者、後期高齢者の生きる力になっているのである。
身内が亡くなった当初は、その考えや確信を忘れたかのように落ち込んだが、時間が経ってくると、◎人は必ず死ぬ ◎人が見たこと、聞いたこと、体験したことなどは、すべて体(DNA)に残り、引き継がれる、の確信が蘇り、また、半信半疑にあることを、生きている間に何とか知りたい、そして探究しようとの情熱が湧いてきた。これが力となり、これからも、しっかりと生きて行こうと思うようになったのである。

「人は必ず死ぬ」とは、自分もいずれ必ず死ぬということである。悲しもうが、楽しかろうが、何かしようがしまいか、必ず死ぬわけである。だから、死ぬことを意識し、死ぬときに悔いの残らないように生きようと思うようになるのである。
また、「人が見たこと、聞いたこと、体験したことなどは、すべて体(DNA)に残り、引き継がれる」の確信も生きる力になっている。
家内とは50年ほど一緒に暮らしたわけだが、彼女の姿、容、考え、思想、振舞、教え等々の情報は、私の体(DNA)に残っていると確信できるので、彼女は私の中に生きていることになるし、更にこの情報は、私と直接、間接で接した人や万有万物にも引き継がれるはずである。
因みに、DNAが引き継がれるといういい例がある。時として数億年前の魚のうろこの皮膚を有する子供が生まれることである。人は、ほ乳類、爬虫類の前に魚類の過程を経てきているので、そのDNAも受け継いでいるのである。

更に、半信半疑であった、◎現世と違う、別の世界(次元)があるかもしれない、と ◎各人は使命をもって世に出てき、使命をやり遂げるまで生かされる等、も確信できるかどうかの挑戦に取り組んでいくつもりである。

もし、これらの確信と半信半疑がなければ、妻の死のショックで生きる力を失ったか、その力が半減したはずである。確信と半信半疑に感謝である。

高齢者、後期高齢者になると生きる力が弱ってくるし、何かあると、その生きる力が失われてしまう。その生きる力をちょっとしたことで失わないためにも、高齢になる前の若い内から、大いに考え、語り合い、生きること、人生とは何か、自分は何者か、何処から来て何処へ行くのかなど考え、自分なりに確信するために挑戦していくべきだろう。