【第531回】 己のふがいなさ

世の中はますます厳しい競争社会となってきている。勝つか負けるか。負ければ、人も国も勝ち組に牛耳られてしまう。それもグローバルという、日本だけではなく、世界相手の競争となっているから大変だ。
資金力や軍事力などの力のある者や国が、それを持たない者や国を制する傾向にあるのである。

街を歩いても、テレビや雑誌を見ても、少しでも売り込もうと、見栄えを最優先にしているように見える。味は二の次で、見かけで評価がきまる。つぶが揃い、磨き込まれたリンゴ等の果物。高級ブランドを携えながら品性のない言動を吐いたり、動作をする者。これでもかと、ばっちり化粧をしてテレビや雑誌に出てくる、中身が心配になるモデル。アンチエージングとかで、年を少しでも若く見せようとしたり、その為のサプリメントや飲料水・食品の目に余る宣伝等々。見栄えを過剰に重視している。

世間も、競争社会にあることはわかっているだろうが、見える世界だけを追っていることには気づいていないだろうし、そしてその弊害と原因、その解決法を知らないし、知ろうとしないと見る。

合気道の教えでは、この競争社会、モノや力に偏り過ぎた世界は、魄が強すぎるので、魂とのバランスが必要であり、そして魂を表に出すようにしなければならないということになる。要は、モノ主体ではなく、心が優先する、心がモノを制御する社会にしなければならないということである。

しかし、これは合気道家として、やるべきことではあるし、合気道の使命でもあるわけだが、それをどうすれば社会にわかってもらえるのかが分からないのである。残念ながら、己のふがいなさを嘆くだけである。

だが、己のふがいなさを嘆くのは、私だけでなく、大先生もお嘆きになった。
例えば、「丁度広島長崎に原爆の危険があることをすでに神様から聞いて前知していた。しかしそんなことをみなにいったとてしょうがない。自分の身を亡ぼすもとであるので、ただ黙って行いだけをしようと思った」とある。
大先生が、原爆投下をお知りになりながら、それが言えなかったことで、どれだけ大先生が苦しまれ、嘆かれたことか、想像を絶することだったのだろう。
大先生は、「世の中を眺めては泣きふがいなさ神の怒りに我は勇みつ」と詠っているが、このような心境であったのだろうと拝察する。

今のところは、世の中を魄の世界から、魂の世界に変えることはまだできないが、大先生が言われている「ただ黙って行いだけをしていく」ほかないのだろう。
合気道家の行いとは、合気の修業を精進することであり、魄から魂の稽古をしていくことに他ならないと考える。
合気道の修業を一生懸命にやっていくことによって、いつの日か、社会のため、世界のためにお役に立てるようになるはずと信じるほかないだろう。