【第527回】 災害、死と人知の無力さ

熊本では、4月16日の本震から一週間以上も経っているのに、本震よりも強い揺れが来たり、余震も800回以上に上っており、被災者の方々だけでなく防災や気象庁の関係者も、今後の予測もできないし、対策もできない状態にあるようだ。

人類が自慢にしている、科学の力をもってしてもどうにもならない事態であり、人知の無力さを改めて痛感させられる。

生活が少し豊かになり、衣食住に不自由しなくなり、また、科学が発達すると、人はどうしても傲慢になってくるようだ。これは人類の性であるようで、人類の歴史を見ればわかる。

この傲慢は、合気道でいうところの「カス」が溜まるということである。だから、「カス」を取り除くために禊がなければならない。合気道はその禊の為にあるし、そのために稽古をしなければならないと教えられている。

大地震や津波などの自然災害もそうだが、人の死、特に、身内の死も、人の傲慢な心を禊いでくれると思う。それまでは、人に負けないようとか、お金を貯めようとか、少しでもいいモノを所有しようとか等々、一所懸命に生きていたわけだが、大災害や身内の死に接すると、今までの思考は一変してしまう。自然とどう向き合うか、死とどう向き合うか、そして生とは何か、何故生まれてそして死んでいくのか、命とは何か、そしてこれまでの生き方でいいのか等々を真剣に考えるようになるはずである。

朝日新聞の「天声人語」(2016.4.24)に「結局のところ私たちの目には、地の底の活断層の動きなど見えず、水脈の変化も見通せない。科学の力をもってしても、前震、本震、余震の順番さえつかめなかった。黙々と白煙を吐く阿蘇の峰を見ながら、人知の無力さに立ちすくむ思いがする。」とある。

人知が無力であることを認め、天災も人の死も宇宙の意志と思い、人の傲慢さを禊がなければならないと考えた方がいいように思える。
被災者の方々は御気の毒であるが、起こってしまったことである。どんなに悲しかろうと、くやしかろうとそれは事実なのである。これを教訓に前向きに生きていくほかない。そしてこの災害を後世に伝えていくことも大事である。聞くところによると、この地帯では400年前にも同じような大地震があったと古文書などに残されているという。数百年まえのことだから、今は大丈夫だなどと思うこと自体が、頭に「カス」が溜まっていることになる。宇宙の時間で見れば、数百年など一瞬である。はじめての災害なら諦めもつくだろうが、以前にもあったと先人たちが古文書などに残してくれた前例があったとしたら、それは人の傲慢であり、その傲慢が被害を大きくしたといえるのではないだろうか。

災害や身内の死に直面しないうちに、禊ぎをしていくべきだろう。われわれ合気道家の禊ぎはもちろん合気道である。自分の傲慢さを禊、そして世の中を禊ぐ稽古をしていかなければならないことになる。

参考文献 「天声人語」朝日新聞(2016.4.23,24)