【第517回】 すべてが師

最近、剣豪小説を読むようになった。単行本で、昼の食事のときに読んでいる。それまでは、剣豪や武道のことに興味はあっても、小説は作り話で事実に合ってないだろうし、ましてや武道をあまり知らない作者が書くのだから、どこまで書けるか信用できなかったのである。

しかし、これは間違いであり、自分の心の狭さ、そして知識のなさの現れであったことがわかったのである。剣豪小説も作者は命懸けで書いているし、資料も山ほど集め、取材のために全国を巡り歩いているのである。

最近、感動した剣豪小説は綱淵謙錠著の「無刀取りへの道 柳生石舟斎」(『剣聖』新潮文庫)であった。ただし感動したのは、その小説の中の一つの文章である。他の箇所はいつものように、ほとんど忘却の彼方に去っている。

従って、この小説に感動したというのではなく、その中の次の文章にである。
「後世の人間が秀綱を目して<剣聖>と称するゆえんは、かれがその先駆的立場にいたからである。今日風にいうならば、刀剣と平和との同時的存在を可能ならしめる哲学の発見、といってよいだろう。そして秀綱はその哲学の究極を<無刀>ということばで表現した。
兵法者であるかぎり、一方ではとことんまで剣に執着する。それは兵法者の宿命である。同時に他方において、その剣を完成させるためには、剣を放下しなければならない。そして、すべての人間が、<無刀>の状態になったとき、天下は<平和>という形で統一されるであろうし、そのときはじめて兵法者は<無刀>の体現者・実践者として、新たな意味をもつであろう。」

これは、まさしく合気道の修業哲学にも当てはまることだろう。武道としての合気道と、愛やみそぎの合気道という同時的存在の可能性、そして、この相反する合気道をどのようにやっていけばよいのか、を示してくれるものである。

小説を読むことによっても、新たな事を学んだり、自分の考えの裏づけになったりする。ここでは、剣豪小説が「師」となるわけであるが、教えてくれる師は沢山あるというより、すべてが師であると考えるべきのようだ。つまり、万有万物すべてから教えを受けられるようにしなければならないということである。

これを、開祖は「天地の真象を眺めて、そして学んでいく。そして悟ったり、反省したり、学んだりを繰り返していかなければいけない。要するに武道を修行する者は、宇宙の真象を腹中に胎蔵してしまうことが大切で、世界の動きをみてそれから何かを悟り、また書物をみて自分に技として受け入れる。ことごとくみな無駄に見過ごさないようにしなければいけない。すなわち山川草木ひとつとして師とならないものはないのである。」といわれている。

しかし、すべてを師として学んでいくには、条件がある。一つは、問題意識を持つことである。ただボーっと見たり聞いたりしても、師は何も教えてくれないし、教えてくれても分からないはずである。

二つ目は、己が中心になることである。周りや他に振り回されたり、その周りを回るのでは、見えるモノも見えないだろう。

三つ目は、真の価値基準を身につけることであろう。その基準によって良し悪しを判断したり、不必要なものを除き、必要なものを取り入れていけばよい。合気道における真の価値基準は、宇宙の条理であろう。これは真理、神ともいってもよいものであるだろう。