【第516回】 禊ぎの必要性

最近、悲惨な事件を多く目にする。テレビでもほぼ毎日、非人道的、反社会的な事件が放映される。事件に巻き込まれる被害者の方々をお気の毒に思い、加害者を恨むと共に、社会の歪み、長年にわたって溜まったカス、と感じるのである。合気道の教えでいえば、ここまで豊かになるために溜まったカス、ということになる。

豊かになることは、人類の自然の性である。経済的にある程度豊かにならなければ、安心して、人間らしく、また楽しく生きることは難しいだろう。先進諸国は豊かになったが、発展途上国も先進諸国のように豊かになろうとがんばっている。

個人でも国でも豊かになるのは、豊かになるという目標があるからで、それほど難しくはないように思える。戦後の貧困時代から、日本は今では世界有数の豊かな国になったのである。

問題は豊かになると、そのためにカスが溜まってしまい、それまでになかったような悲惨な事件が起きたり、弱い者をいじめたり搾取したりする心になったり、物事を金銭や損得で評価したり、他者との競争や他者を己との評価対象と見たりするようになってしまうことであると考える。

テレビや写真などで伝統的な祭りを見ると心が和らぎ、祭りとはすばらしいものだと思う。小さい村や地域のお祭りでも、山車が出るような大がかりな祭りでも、心が洗われるのである。これが禊ぎであろう。祭りの踊りなどに参加する人だけでなく、祭りを見る人の心も禊がれているのである。

つまり、祭りは禊のために不可欠であった、ということである。濁って澱んでできるカスを払拭するために、続けられてきたのである。それを、人は知っていたわけである。祭りがなければ禊ができないから、カスが溜まり続け、災いが起きたり、引いてはその村や地域の社会が消滅することにもなりかねない等と恐れたであろう。

祭りは禊ぎであるが、他にも身近に禊をするものがある。一つは歌と踊りである。特に、伝統のある民族舞踊や音楽には禊がなされる。例えばハワイアン、アボリジニ、エスキモー、モンゴル、アイヌ等々である。もちろん一般的な音楽でも、程度の差はあれ癒されるものである。だから人は、時代や地域や民族などに関係なく、音楽や踊りに魅かれるのだと思う。

もちろん宗教にも癒されるものである。教会や神社やお寺で、お説教やみことのりを聞けば禊がれることだろう。また、みことのりを唱えても、気持ちはすっきりするものだ。

それに、合気道がある。合気道は禊ぎであるともいわれるから、稽古をすれば心身ともに清々しく禊がれるはずである。

悲惨な事件の張本人にならないよう、穢れを払拭するためには、祭りに参加したり(直接参加でもできなければ見物でもよい)、お参りをしたり、また、合気道を稽古すればよい、ということになるだろう。

しかし、忙しい世の中なので、なかなかこれも難しいかもしれない。カスには身体的カスと心のカスがあるわけだが、このカスを除去するには、体を動かすことであると思う。

世の中が便利になって、体をどんどん動かさなくなってきている。文明の便利さは必要に応じて利用させてもらえばよいが、便利さからくる裏面を補わなければならない。乗り物で移動したり、ボタンを押すだけの仕事を四六時中やっていれば、カスが溜まるのも不思議ではない。このカスを適度に除去しなければ、いずれはカスが爆発したり、思わぬ事をしでかしてしまうことになるかもしれないのである。

禊ぎのためには、先ずは体を動かすことである、と考える。