【第508回】  今、できることをやる

最近の高齢者社会では、悲惨な問題が起こっている。同情の念を持つと同時に、己自身の末期の生き方と、それに対応するこれからの生き方を考えなければならないと思うようになった。

悲惨な高齢者の問題の一つの例に、看護に疲れたご主人が認知症で寝たきりの妻の首を絞めて殺してしまったというものがある。その時のご主人の、妻に対して申し訳ないという気持ちや、自分も看護の疲れの限界にあって、これ以上は無理だと訴えても理解できない妻への苛立ちと悲しさなどがあった等、いろいろ想像すると切ない限りである。

どんな人にも死へのお迎えはくる。自分にもいずれはやってくる。葬式をどのようにするか、またはしない、などは事前に考えておくことができる。しかし、いつお迎えが来るのか、どのような死に方をするか、などまでは予想がつかない。アジアでベストセラーになった金庸著の武侠小説に出てくる英雄・豪傑たちは、戦いに敗れた後に集合し、歌を詠み、酒を酌み交わし、音楽を奏で合い、最後の別れをした後、各自息を止めて絶命したとある。だが、そのように自分の意志で死を自由に迎えることは難しいだろう。

お迎えに備えてできることは、「今、できることをやっておく」ことだと考える。体が動くうち、意識がしっかりしているうち、またやりたいこと、やるべきことがあるうちに、やっておくことである。

自分個人のためにそれをやれば、お迎えがきたとき、やることはやったと満足してあちらにいけるだろう。また、社会のためにやれば、社会はきっと感謝して送り出してくれるのではないかと思う。

また、夫婦の場合なら、お互いのためにできるだけのことをやっておけば、体が思うように動かなくなったり、やりたくとも意識が朦朧としてできなくなったり、また、最悪、前出しの事件のように、やってはいけないことをやることになってしまっても、少しはお互いに分かり合い、許し合うことができて、心の安らぎになるのではないかと思う。

もちろん首を絞めて殺すというのは犯罪であるから、容認することはできないので、社会が罰するわけだが、自分がそのような状況になったら、そうならないとは限らないだろう。人間は強いところもあるが、弱いところもある。武道でどれだけその弱い部分を埋めていけるかは分からない。

まあ、できることといえば、今できることを自分のため、社会のため、女房・家族のためにやっておくことであろう。