【第496回】  一人でも楽しむ

年を取るに従って、時間の流れがどんどん早くなるように感じる。話には聞いていたが、年を取ってくると、時間が実に情け容赦なく、あっという間に過ぎていくのである。

時間が年齢と共に、加速度的に早く過ぎていくのは、どうしようもないだろう。だが、大事なこととしては、お迎えが来た時であって、時間があっという間に過ぎてしまったので、高齢者としては何もできず、何も楽しいことがなかった、等とはいいたくないのである。

若い時は元気と時間が十分あったので、付き合いも多かったし、いろいろな所へ行き、いろいろと体験したものだ。だが、年を取ると付き合いもだんだん少なくなり、どこかに行くのも面倒になるし、新しい体験をしたいとも思わなくなるのではないだろうか。

そのため、年を取ってくると、ひとりになる時間が自然と増えてくるだろう。若い頃なら、寂しくてとても耐えられなかったことだが、年を取ったせいか、それがかえって有難いのである。

若い時は、横に広がる世界、量の世界、モノの世界、見える世界などに憧れていたといえるが、年を取ると、自分の好きな事を掘り下げ・積み上げる縦の世界、少しでも良くしようとする質の世界、見えるモノではなく、見えない心の世界に入っていくようである。

すると、一人でも楽しめるようになってくるものだ。それまでの人生経験から、自分というものが見えてくる。自分の中には、いろいろな自分がいることが分かってくる。自分はこれだ、などという単純なものではない。何かしても、それを褒める自分がいれば、同時にそれをけなしたり、馬鹿にしたり、笑う自分もいる。

自分の中のそういう連中を戦わせるのも面白い。どの奴にも正しい面があるから、その言い分も面白い。頭の中で、それらの言い分を聞いていると、飽きることはない。

例えば、明日は仕事がないから博物館にでも行こうか、と提案する奴がいると、必ずそれに反対し、言い訳を考える奴が出てくるものだ。もしかすると、明日は雨がふるかもしれないし、人が多くて存分に見れないかもしれないぞ、とか、それより家でゆっくりした方がいいよ、とか、何かうまいものでも食べに行こう、とかいうのである。

そこで、本体と自分では思っている私が判断し、結論を出すことになる訳だが、決断を下したのに、まだ不服の奴もいるのだから、自分のことさえ思うようにはならないのである。

自分の中には、合気道に凝っている自分もいれば、食べることを大事にしている自分、本や映像から知識を得たいと思っている自分、自分の考えを文章に残したいという自分、それに、自分の思いを歌(狂歌)で表わしたくなる自分もいる。この時々、突拍子もないモノをつくる奴などは、気ままな奴で、制御不可能ともいえる。

いろいろな自分が、あれをやりたい、これをやりたいというし、それをやるにしても、さらにいろいろと口を挟んでくる。まあ大変でもあるが、一人でも退屈することはない。

高齢者で、一人で楽しめない人は、他人とでも楽しめないのではないだろうか。自分は他人ではないから、本当のところはわからないが、周りの高齢者を見ていると、そう思えるのである。

自分で自分を笑えたり、自分を笑うもう一人の自分と対話ができれば、他人との交流は容易であり、他人とも楽しめることだろう。

一人でも楽しむことができれば、よい人生の後半が送れるだろう。ただ、一人でしか楽しめないというのは、少々異常であろう。