【第495回】  後進への教え

合気道は己に打ち勝って精進する、絶対的な修業であり、スポーツのように他人を打ち負かすためにがんばる相対的なものではない。ただ、己がいかに精進するかが大事なのである。

これまでは、己だけ合気という道を進んで行けばよいと思って、稽古を続けてきた。しかし、半世紀も稽古してくると、いつの間にか古参となり、周りの大半が後輩ということになる。後輩は、己がたどってきたような道を歩んでおり、多くの間違いや失敗をしたり、迷っている。先輩の目で後進たちを見ると、それは失敗であり、その原因はこうで、解決法はこうなる、というのがよく見えるものである。

だが、これまでは己の稽古に専念し、後進のために何かをしてやろうなどとはあまり考えなかった。武術的に考えれば、わざわざ相手を強く、うまくして、後で手こずったり、やられてしまうこともあるわけであるから、要注意であるともいえよう。

それに、後進に何かを教えてしまうと、後進はこちらに遠慮してか、相対稽古で力を抜いてしまうことがある。だから、なるべく教えないようにしている。それよりも、できるだけ力一杯、思いきり力と気持ちを入れて、攻撃してもらうのがよい。こちらは大変だが、よい勉強になる。

だが、最近になって、己だけではなく、後進の精進の手助けもしなければならない、と考えるようになった。その理由は、@これまで多くの先生や先輩にお世話になり、精進していくための導きがあった、ということを思い出したこと。A近年、ますます体を痛めたり、壊す後進が増えてきているようで、体を痛めるような稽古をしていることがわかる。体を痛めることが確実と分かっていながら、何もしないのは、殺人幇助罪に匹敵するようなものであり、その罪に加担しないようにするためである。B合気道の修業の目標は地上天国建設であるが、これはみんなで力を合わせてやらなければならないことである。そのため後進にも精進してもらわなければならない。

しかしながら、他人に教えるとか、後進を導くことは容易ではない。学校の先生とは違い、カリキュラムなどはない。また、稽古のやり方も人によって違うし、好き嫌いもあるし、相性もある。

たとえば、挨拶さえしないような者とは相性が悪いから、こちらも教える気がしない。先生はそうはいかないが、自分の立場ではそれができるのは有難い。

後進を教える方法は、いくつかある。一つは、「無言の教え」である。つまり、己が宇宙の法に則った技を追及してく姿と、そこから出てくる技を見せるのである。よほど真剣に打ち込み、それなりの技が出てこなければ、誰も関心を示すものではない。人は見るべきもの、見る価値のあるものは、見るものである。だから、見せようと思って技をつかうのではなく、結果として後進が見るような技を追及していかなければならない。

もう一つは、「有言の教え」である。注意しなければならないのは、間違った事を教えないようにすることであり、また、後進のためになるよう、相手の力量に合わせて教えることである。相手を倒すために教えるのではなく、相手が自ら倒れるよう、また、それに近づくように、教えてあげることである。

そのためにも、法を教えなければならない。錬磨している技は、法に則っているからである。つまり、宇宙の営みを形にした、法の形を示すことである。法は宇宙の法則であるから、万有万物、万人に通用するし、今だけではなく、未来にも、また、過去にもつながっているはずである。また、誰がどこで、いつつかっても、通用するはずのものである。

法を教えたら、その法をさらに練り込むように導くのである。法の数、そして法の深さの横と縦の十字の教えである。

「有言の教え」には、もう一つある。後進の疑問、質問に答えることである。先輩は的確に答えてあげなければならない。的確というのは、質問してくる後進を間違いのない内容で納得させ、導いていくことである。後輩の質問や疑問に答えられなければ、後輩と同レベルになるから、反省し、さらに精進しなければならないことになる。

先輩だからといって、後進に教えればよいというものではない。「無言の教え」も「有言の教え」も、次の後進が、その次の後進に引き継ぐことができるように教えなければならない、と考えている。