若い頃の稽古を思い返してみると、今の稽古とはだいぶ違っていた。その内のひとつに、若い頃は周りや他人を意識した稽古をしていた、ということがある。例えば、若い女性などが見ていたり、一緒に稽古するときなど、少しでも格好よくやろうと意識して稽古していたものだ。
今はそういうことはないばかりか、若い人たちが自分と全く同じことをしているのを見て、苦笑している。
戦争に負けて、経済的に苦しい時代を過ごしたものだが、次第に少しずつ豊かになり、今では世界有数の経済国になった。貧しい時代に苦労した人たちは、少しでも豊かになろうとした。豊かになった人を羨望し、自分もそのように豊かになろうとしたのである。豊かになったことを示すのは、服装や住居や車など、目に見えるものである。高価な服を着たり、立派な家に住んだり、高級車に乗っている人を見れば羨やましいと思った。特に、若い者はそうであっただろう。
年を取って来ると、高価な服装、豪邸、高級車などには興味がなくなって来るものである。逆に、高価な服装などは目立つし、汚してはいけない、などと気をつかうものだ。豪邸なども掃除が大変だから御免だし、車などあっても、酒が飲めないとか、駐車場の心配など、たとえくれるといわれても御免こうむりたいものである。
合気道の教えで世の中を見ると、まだまだというより、ますます魄が幅を利かせているように見える。物質文明であるので、力がものをいう競争社会、争いが絶えない社会、ということになる。
それはまた、見えるモノを信じ、重視する社会でもある。従って、人に見られるように、少しでも目立つよう、よく見せようとする。
見栄えさえよければよしとする社会であるが、合気道でいう見えないモノである心や精神(魂)で見ると、その陰や裏が見えて、その馬鹿馬鹿しさもわかってくる。例えば、顔だけはしっかり化粧していても、険しい顔付であったり、暗い雰囲気、立ち振る舞いに無頓着で粗野な女性などがいると、気になるものだ。私の持論であるが、若い女性はそれ自身で美しいはずであり、厚化粧などは必要ないだろう。年を取ってくれば、若い時とは違うから、それなりに化粧も必要かもしれないと思うが、それだけの経験があって、人間性ができてくれば、化粧に負けることはないだろう。
要は、見えるモノだけに頼っていると、うまくいかないということである。合気道でいう、見えないモノで勝負をするのがよい、ということである。見えないモノとは、「心」である。実際、人と接しても、テレビや映画を見ても、感動するのは立派で豪華なモノではなく、心である。心がモノの上にあるのである。有難いことに、心のすばらしさ、対モノの優位性が、少しずつではあるが世間に認められつつあるように思える。これからの映画やテレビ、またコマーシャルも、モノで勝負するのではなく、心が要になるはずである。
これは、合気道の稽古でも見られる状況である。若い内は魄の力に頼り、争いになりがちで、相対的な稽古になるものだ。合気道では、力である魄を土台にし、心の魂で技をつかわなければならない、と教えられている。
相手を意識せず、相手はいるが相手はいない、という心で、自分との戦いである絶対的な稽古をすることである。相対稽古の相手や、周りにいる他人に見せるのではなく、自分自身に見せる、絶対的な稽古をしなければならない。
稽古は、この心主体、自分自身との絶対的な稽古を、どんどん深めていくことである。他人を意識したり、他人に見せるためのものではないのである。
まずは、合気道家が、若い頃の見せる稽古にさようならをし、新たな精神文明、心の重要性を身につけ、世の中に「見せる文化」よさようなら、を伝えていくのが使命ではないか、と思う。