【第483回】  心で生きる

合気道は第二の岩戸開きをしなければならない、という教えがある。つまり、魄を裏にし、魂を表に出していかなければならない、ということになろう。具体的には、まず腕力、迫力、体力などのパワーを十二分に身につける。だが、そのパワーで技をかけては魄の稽古になってしまうので、そのパワーは後ろに控えさせ、それを土台として、心(魂)で技をつかわなければならない、ということである。

だが、心で技をつかうというのは、容易なことではない。相手が力いっぱい手や胸などをつかんできたり、打ったり、突いてくるのを、心で制し、導くのである。まずは、土台になる力を充分に養成しておかなければならないし、心(魂)が力(魄)より大きいパワーを出すことができることを信じて、稽古しなければならない。

相手のパワーが大きく、思うように技が効かない時に、己も魄の力でやってしまうと、魄の稽古に戻ってしまうことになる。これは、自分の心に負けないようにするための、心の稽古なのである。敵は相手ではなく、自分自身、自分の心ということになるだろう。

心の稽古が少しずつできてくると、稽古相手の腕力、体力、身長、体重、国籍、性別、等々は、技をつかう上で関係なくなってくる。目に見える外見は違っても、目に見えない心から見れば、ほぼ同じなのである。

相対稽古で相手に技をかけたり、技をかけられたりしても、目に見えるモノではなく、心の動きが面白いし、大事になる。相手に十分攻撃させ、相手が満足して倒れるようにするのである。相手が倒れるように技をつかうのではなく、やるべきことを理合いでやった結果、相手が倒れるわけである。

日本は戦後の貧しい時代を乗り越えて、世界有数の豊かな国になった。子供の頃に夢みたように、お腹いっぱい好きなものを食べることもできるようになった。有難いことである。しかし、周りを見てみると、その貧しい時代にはなかった問題が目につくようになってきた。人身事故と表現される自殺、老人問題、孤独、差別、等々である。

これらの問題にどのような意味があるのか、また、その原因や解決策なども、合気道の思想に照らし合わせて考えてみると分かりやすいし、その解決策も合気道の教えの中にあるように思う。

これらの問題や原因は、日本だけではなく、豊かになった世界の先進国に共通することであると思う。これまでは、合気道でいう物質文明の時期であり、金や力がものをいう力の社会で、人はその力を得るべく戦う競争社会であった。しかし、長年求めてきた金や名誉などの力を得た後、あるいは、そのようなものを得た人を見て、人々はどこか変だ、これでは十分に幸せではない、あるいは、これは違うのではないか、と思い始めたのだと思う。

このため、人身事故のような自殺をしたり、若者の昇進拒否や独身主義、等々が起きているようである。振り込め詐欺やオレオレ詐欺も、そこに原因があるのだろう。ISの戦いやテロなども、その底に彼らにはどうにもならない物質文明の問題があるのかもしれない。

これは、合気道においては、魄の力で技をかけても、相手だけでなく、己自身も満足できない、という時期である。

これらの社会問題を解決するために、合気道では、モノではなく心で技をかけなければならない、と教えている。魄であるモノの力に頼れば、必ず行きづまる、という教えである。

合気道の教えに従って、若い内は経済を大切にし、生活の土台をしっかりとつくり、物質文明を謳歌すればよいだろう。しかし、高齢になってきたら、それを土台にして精神文明を生きなければならない、ということである。つまり、モノではなく心を大事にし、心を中心にする生き方である。自分の心と相手の心を大事にする生き方である。これを、合気道では愛という。

最近では、日本人も愛の大事さに気がついてきたようで、2020年のオリンピックの標語を「おもてなし」とした。「おもてなし」ということは、相手の方、お客様のためを考えています、という「愛」なのである。外国からのお客さんだけでなく、世間のお客さん、他人、身内、夫婦間でも、おもてなしをしあえば、よい世の中になるはずである。

心は人それぞれに違うが、どんどん変わっていくものであると思う。体は成長するが、後はどんなにがんばっても退化していく。だが、心はがんばれば、成長していくようである。例えば、開祖がいわれたことをよく噛みしめて考えると、通常の心である顕界の心、物質文明の心、力と競争社会の心を、目に見えない幽界・神界の心へと磨き、昇華して真の心になり、その真の心は宇宙の心の魂と一体化して働くようになる、ということのようである。

心で周りを見ると、相手の心が観える。心は、モノや力などとは関係ない。モノや力がなくとも、輝く心を持つことができるのである。心で語りかければ、相手も心で返してくれるし、分かり合える。人だけでなく、動物とでも植物とでも語り合える。開祖がいわれた、人類はみな家族、万有万物はみな家族、というのが、実感できるはずである。心で生きるようになれば、孤独などなくなるだろう。

また、体は退化しても、心は成長し続けることができる。それには、自分の心を磨いていくことである。磨く方法とは、自分の真の心との葛藤である。心がそう思ったとしても、もう一つの心、真の心が、それはまずいとか、こうした方がよいとかいってくれるので、心が磨かれるわけである。これを一般的には、心の葛藤とか、心の迷いの原因とすると考えてもよいだろう。だが、心の葛藤をしていれば、退屈などすることはない。

合気道は力でやると限界があるので、満足できないものだ。また、高齢者も、もはやモノには満足できないだろう。合気道は力から心へ、そして高齢者もモノから心へと、変わっていかなければならない。そうすれば、自分が成長する楽しさを味わえることになるのだろう。