【第478回】  空を行ずる

合気道の修業の目標は修業するその人によって違うだろうし、また合気道を直接稽古をしていない方の見方や考え方も違うだろう。

『武産合気』の巻頭で、大先生と親しかった宗教法人白光真宏会開祖の五井昌久先生(写真)は、「合気道は、空を行ずる事が根幹にある。空を行ずると云う言葉を云いかえれば、自我の理念を無くすると云う事であります」と、合気道を捉えられておられる。

合気道の開祖は、合気道の目標は宇宙との一体化といわれているわけだが、そのためには天の浮橋に立たなければいけない等、空にならなければならない。つまり、自我の理念を無くするわけだから、合気道は空を行ずる事を目指しているといえる。

年を取るに従い、合気道は難しく、その道は険しいことが分かってくるものだ。それまでは、合気道は他の武道やスポーツに比べて、容易に身につき、誰でも簡単にできると思っていた。しかし、今では、合気道ほど難しいものはないのではないかと考える。

合気道は頭がよくないと会得できないといわれるし、またその通りだと思う。しかし頭がよいとは、難関大学の入試を通ったり、博士号を取得したり、公認会計士や弁護士試験に合格するような頭ではない。なぜならば、もしそうなら東大生やOB、何とか博士、公認会計士、弁護士などの多くが合気道を会得しているずだし、また、合気道を会得するために東大に入り、前述の資格を取ればよいということになるだろう。

世間で頭がよいといわれる彼らであっても、合気道の会得は難しいはずである。その理由は、五井さんの言葉を借りれば、合気道は空を行ずることであるのだから、自我の理念が強かったり、頭にいっぱい詰まっていれば、なおさら難しいからである。自我の理念が強ければ強いほど、頭にいっぱいに詰まっていれば詰まっているほど、それを無にする、つまり、空を行ずることは難しいであろう。

また、高齢者にも合気道の会得は難しいように思う。肉体的な理由もあるが、それよりも、自我の理念を無くす、空を行ずるのが難しくなっていくのである。年を取ってくると、長年いろいろな経験をし、それが今の自分をつくり上げてきたのであるから、自分のやり方、考え、そして己自身に誇りを持ち、自信をもっているはずである。その結果、やはり高齢者も自我の理念が強く、頭が詰まっているという傾向にあるといえるだろう。これは、一口にいえば頑固、頭が固いということである。

合気道を、頭に一杯詰まったままの気持ちでやっても、先へ進むことはできないであろう。詰まっていれば、新しいものは入らないのである。

まずは、世俗が評価している事(例えば、地位や名誉、段)、己の理念(例えば、世俗の考え、思想、やり方)を一皮づつ剥ぎ取り、最終目標を目指して、そこに少しでも近づくべく、赤ん坊のような無垢の気持ちで、その道を一歩一歩進んでいく稽古をしていくことだろう。

これが、空を行ずるということではないかと考える。