【第476回】  心の葛藤

人は、心の葛藤で苦労するものである。ああでもない、こうでもない、ああしようか、こうしようか、やろうか、やめようかなど、等である。

若い内は社会の組織や機能の中で生きているので、それが判断の基準になる。だから、心の葛藤は少ないだろう。たとえあっても、社会的な判断で良否が判断できるものだ。

例えば朝起きなければならないが、眠いともう少し寝たいと思う。起きようか、もう少し寝ようか、という心の葛藤があっても、何時までには会社や学校に行かなければならないとなると、あと何分寝ていられる、等と決められるだろう。

しかし、定年退職などして、これまでの社会の組織や機能から外れ、いわゆる自由に生きることができるようになると、いつまで寝ていてもよいわけである。といっても、病気でもない限りいつか起きることにはなるだろうし、そこにも起きるか、まだ寝ているかなどの葛藤はあるものだ。

今回は、なぜ心の葛藤があるのか。心はどうして、自分の中で反対の事を考えて葛藤するのだろうか。合気道の思想から、この事を考えてみたいと思う。

人の心と体である心体は、合気道でいう顕界に生きていて、現実的である、といえるだろう。己の心体は己を守り、他に負けないよう、己の成長を促進しようと、利己的、そして本能的に働いている、と考える。朝眠いのに起きなければならない時に、体は疲れているのだからもっと寝てなさい、と心はささやくのである。

この利己的で本能的な心体だけなら、心の葛藤は起きないだろう。葛藤が起きるのは、これに対抗するものがあるからである。これを合気道では、本当の心とか、真の心という。この真の心が、もうそろそろ起きた方がよい、というのである。

この真の心、本当の心とは、地球楽園や宇宙天国の建設のための生成化育に働いている心である。宇宙につながっている心で、魂ともいわれるものである。この真の心は、己のためではなく、宇宙生成化育の観点から判断し、心体の心に指示したり、アドバイスをしたりする。だが、心体の心と真の心に違いが生じ、心が反抗すれば、心同士の葛藤になる。

小さい子供は、心体が十分に成長していない間は、真の心、つまり宇宙の意思でもある魂で生きることができるので、神に近いような天真爛漫さで生きているようである。だから心の葛藤は少ないはずである。

また、存分に年を取ると、人は再び子供のようになるが、これも、心よりも真の心、魂で生きるようになるからだろう。これが、老人が子供に帰る、ということではないだろうか。

年を取っても、顕界の心で利己的に生きれば、真の心との葛藤は続くだろう。心の葛藤なしに、真の心に従って生きることができれば、どんなにすばらしいだろう。合気道の開祖植芝盛平翁はそのように生きようとされ、また実際にも生きられたのだと思う。