【第47回】 見えないものを見る

合気道を始めた頃には、稽古時間の最初に先生が示した形が何なのかさえ見えず、その形の真似もすぐにはできなかったのに、先輩達は問題なくその形をすぐにやっていた。先生の動きがよく見えるものだと、感心したものだ。それがだんだんと自分にも技の形、手足の動きが見えるようになってきて、先生の示した形を問題なく真似できるようになってきた。

若いときはパワーが有り、パワーの稽古をするものだ。若者は、概して精妙な技などもっていないし、あまり関心もない。そこでどうしても、パワーも技の内とばかり、パワーでやるものだ。パワーをつけるためにぶつかり稽古をしたり、鍛錬棒や鉄棒を振ったりして筋肉をつける。筋肉がつき、体もできてくるのが見えるので、パワーをつける稽古はやりやすい。

高齢者になれば、若者のようなパワーはなくなってくる。パワーでやれば若者には敵わなくなる。従って、パワーのある若者を制するのは、パワー以外のものでやらなければならないことになる。

若い内は、表面的なものしか見えないものだ。手とか足の動き、手先の軌跡など体の末端の動きしか見ていない。それに、体の大きさとか、腕の太さなどで強さを判断してしまう。それが、高齢になってくると、自分のパワー、エネルギーを出来るだけ有効に使うことを心掛けるようになる。相手に持たれたり、接している体の末端にある手先を振り回すより、その部分の対極にある見えない部位を使った方が、より強力で異質の力、つまり相手を合気する力を出すことができることが分かってくる。

それからまた、見えないものを見ようとするようになる。上手い人が技をかけると、持たれている部分を振り回すことなく、それどころかほとんど動かすことさえなくて相手を崩したり制するものだが、これは見える部分でなく、見えない部分を使っているからである。

見えないものを見るというのは、目で見るだけではない。感じることである。自分の体の中での力の流れ、力のぶつかり、腕の重さなど、あるいは、技を相手にかけたとき、自分の技、力の使い方、力の出し方などが相手にどんな反応を与えるのか、その因果関係を鋭敏に感ずることでもある。

西洋流のスポーツの監督とかトレーナーは、選手や弟子に技術を教える人であるが、武道や武術の師範や先生は技術だけでなく、神から授かったものを継承する人であるとされている。従って、合気道を稽古することは、合気道に対する開祖のお考えを見ることであり、また、もしかすると、開祖がかかわられた神までも見えるかもしれない。武道の名人や達人には、常人には見えない神や過去、未来が見えた人がいたようだが、見えないものを見る努力と修練をした結果なのかもしれない。

目に見えないものを見えるようにするのが、いわゆる"芸術"とか"宗教"といわれるものであろう。だが、合気道でも、目に見えないものを探し出し、それを技や動きで再現し、そして創造していかなければならないと思う。