【第469回】  技は人格の表現

合気道は基本技を繰り返し稽古して精進していくが、同じ技(正確には形)を道場で大勢が一斉にやるのを見ても、全く同じように技をつかっているのではなく、必ずどこか違っているものである。

教える先生方は、自分と同じように技をつかうように教えているはずだが、どうしても同じにはならないのである。

しかし、結論からいえば、違ってしまうのは当然である。なぜなら、人はそれぞれ別の人格を持っているし、技は人格の表現であるからである。

合気道を始めて50年以上になるが、開祖をはじめ、開祖の直弟子であった先生方を顧みても、それぞれ異なる人格を持っておられたし、また先輩方も我々の稽古仲間も、みんな異なる人格を持っていた。私の知る限り誰一人として同じ技づかい、同じ人格の方は居られないのである。

若い内は先生や先輩に少しでも近づこうと、技を真似したり、同じように人格も表現しようとするものだ。だが、年を取ってくると、教えてくれる先生や先輩もおられなくなってしまうので、真似することができなくなる。そのため、それまで教わった先生や先輩の教えを自分の身に着けていくしかなくなる。それまで教わったいろいろな方々の教えを、自分のものに消化して、それで人格を構成していくことになるのである。

それまでは、主に人に教えを受けて精進してきたわけであるが、高齢者になれば、今度は自分で人格をつくっていかなければならないことになる。だから、年を取れば自分の人格に責任ができるわけである。

自分がどのぐらいの人格の者であるかは、合気道で技に表現される。無心に稽古をすれば、人格が現れるだろう。かつて本部道場の師範であり、6つの大学で合気道を教えておられた有川定輝先生は「俗に技は人格の表現と言われている。無心に稽古するとき、自ずから技に人格が現れる。」(「千葉工業大学合気道部部誌「和」創刊号」)といわれている。

確かに技を一目みれば、その人の人格が見えるものである。だが、先生がいわれるのは、さらに無心になって技を磨き、人格を向上させなさい、ということであろう。

つまり、一日一日と技が深まって、人格が向上していくように稽古しなさい、ということである。年を取るということは、それだけ深いところまでいける、ということでもある。だから、技が深まり、そして人格も変わっていかなければならない、ということであろう。

自分のつかっている技は、自分の人格を表現している。つまり、自分をさらけ出しているわけである。だから、気をつけなければならないし、恥ずかしくないように稽古を積み重ねていかなければならないだろう。