【第468回】  過程がおもしろい

忙しい世の中になったものだが、これから世の中はますます忙しくなることだろう。子供の頃の社会のテンポと今のテンポを比べると、明らかな違いを実感する。たとえそれを良しとしなくても、今の社会はより速いテンポを求めているのであり、その上、ほとんどの人たちはそれに加担して生きているのだから、どうしようもないだろう。

例えば、新幹線ができて走れば、誰もが喜ぶ。そして多くの人たちが少しでも早い新幹線、そして、それよりも早く走る乗り物のために働いている。より早い乗り物を作り、少しでも早く走れるようにすれば、評価されるが、その逆では誰にも評価されない。カタツムリより遅い乗り物をつくっても、誰にも評価されないだろう。

人は自ら忙しくしているわけであるが、忙しくなってくると、時間の関係か精神的な原因かわからないが、過程を楽しむよりも結果を重視するようになってくる。

例えば、金が入るのなら手段はどうでもよいとか、さらに、人に迷惑をかけても、悪いことをしてでも、儲ければよいということになってしまう。また、学校の試験でも、点数さえよければよいとばかりに、答えだけを覚えたり、場合によってはカンニングをすることにもなる。

では、忙しくない時代には、金儲けのために悪いことはしなかったかとか、カンニングはなかったか、等と聞かれると答えられないが、あったとしても今のようにひどくはなかったと信じたい。少なくとも、忙しさと結果重視は比例関係にあるようだ、ということである。

最近、気になるのはスポーツの試合である。選手やチーム監督は勝つことにこだわっているように思えるのである。プロでは勝つことによってお金が違ってくるわけだから、勝つことは大事だろうが、見ているわれわれには面白くない。特に八百長には腹が立つ。

われわれが見ているのは、勝ち負けもあるだろうが、プレー内容、つまり勝負の過程である。われわれにはとてもできないようなプレー、人にはこんなこともできるのかという超人的なプレーを期待するのである。相撲なら、ぶつかり合って水入りになるような、手に汗握る勝負を期待して見るわけである。勝った方を称賛するより、いい内容で戦った方を褒め称えるのである。

スポーツの勝負は、必ずどちらかが勝ち、どちらかが負けるものであるが、サポーターやごひいき筋ならいざ知らず、一般人は当事者も思ってもみなかった内容、過程に興味を持って見るのである。

勝負の内容がよければ、観客は増え、そのスポーツは発展するはずである。もし勝つことだけを考えて内容が伴わないのであれば、勝つことにこだわるサポーターを増やすしかできないことになるだろう。

残念ながら合気道の稽古でも、その傾向があるようである。相対稽古で、自分が技をかけて投げたり、抑えたりする番になると、ただ相手を倒したり、投げたり、抑えればよいとばかりにやるようである。

相手が受けを取ってくれるのは決まっていることなのだから、わざわざ倒すことに力を注ぐことはない。もっとその過程を楽しむ、つまり、大事にしなければならないのである。合気道の技は、過程を楽しみ、大事にしていけば、その結果として相手が倒れてくれることになっているのである。

そこには、己の体の動きや相手の反応など、おもしろいことが沢山あるのである。最後の結果だけを忙しく追うのでは、本当の面白さをわからないままで、稽古を終えることになる。そして、やがて技の上達も止まってしまうことであろう。

人の人生にも、初めと終わりがある。人間は誰でも死という結果で終わることに決まっている。だが、死までの過程はそれぞれ違うはずである。なぜなら、人はみな生きている場所と時間が違っていて、決して一緒にはならないのであるから、それぞれが違った人生しか持てないのである。だから、人は人に興味を持つのだろう。

合気道の修業でも人生でも、他の人の人生の過程も教えてもらい、己の過程も最後には満足できるように楽しみたいものである。