若い頃は考えもしなかったが、合気道という武道をなぜ今もやり続けているのか、我ながら不思議である。
金にも名誉にもならないことを、貴重な時間を割いて稽古に通い、怪我をしたり、させられたり、夏の極暑の中や冬の寒中などの厳しい環境でも、苦しい思いをしながら稽古するのである。
世間の人たちからすれば、ご苦労なことをしていると見えることだろう。人は少しでも楽しようと生きているはずだからである。
だが、人は少しでも楽しようと生きているのであるが、人の本性はそれを喜ばないようである。日刊工業新聞「産業春秋」に「人間は必ずしもリスクをゼロにすることを望まない。困難に立ち向かい、乗り越えることに喜びを見出すのも本性のひとつだ。そうした一面がなければ人類はここまで進化しなかっただろう」とあった。このような人間の本性が、合気道の稽古を続けさせるのであろう。
また、危険があればあるほど動物は賢くなるというし、厳しい環境を生きると知恵が高くなるともいう。
合気道の稽古においても、己の本性が喜ぶようにしなければならない。本性が喜ばなければ、稽古は長続きしないだろう。リスクを恐れず、挑戦することである。
挑戦するといっても、合気道には勝負がないし、敵もいないから、自分への挑戦ということになる。世間は笑うかもしれないが、自分、そして自分のリスクに挑戦していくのである。年を取ってくれば、怪我のリスク、体を壊すリスク、そして、そこからくる再起不能のリスク等もあるだろうが、それを乗り越えていくことである。
己を厳しい環境において稽古していけば、おそらく知恵がつき、賢くなるだろうから、本性が喜ぶはずである。困難に立ち向かい、乗り越えることに喜びを見出すのも、本性のひとつだからである。
厳しい環境は、人が自分に与えてくれるものでも、用意してくれるものでもない。自分でつくるものである。精神的にも肉体的にも、自分の極限で稽古をすることである。自分の極限で、一生懸命に稽古していれば、本性が喜ぶはずである。
本性が喜んでくれれば、その稽古に満足できることになる。そして、うまい酒も飲めることになり、また、がんばろうと思うことだろう。
己の本性の声に耳を傾ける。これが高齢者の稽古ということになるのではないか、と考える。