【第44回】 幽界に遊ぶ

高齢者になると先がだんだん見えてくる。肉体をどんなに鍛えても若かったときのように筋肉ができて、パワーがでることもなくなる。合気道の稽古も若いときのようにはできないし、やるべきではない。

若いうちは力いっぱい、力を出し切って稽古をすべきである。若いうちは、稽古をやればやるほど筋肉がつき、力がつくものだ。技がない若者が、先輩や高段者と稽古が対等にできるとしたら、若者が持っている元気しかないだろう。若者は現実の世界、パワーの世界、物質文明の世界に生きざるをえない。この現実の世界を顕界という。

大宇宙には顕界、幽界、神界の三界があるという。神界は八百万の神々がいる高天原で、神界と顕界の間にあるのが幽界である。幽界は通常「あの世」とか「黄泉の国」などいわれるが、合気道では「天の浮橋」というのではないかと考える。人は通常は顕界で生きているが、幽界や神界も知りたいと思うし、憧れてもいるようだ。これは顕界の限界を人は無意識のうちに感じているし、高次元の世界に憧れているからだろう。神界は別として、顕界にあって、幽界の体験または幽界に遊ぶことは身近に行われているといえる。例えば、「能」や「茶道」である。そして、合気道である。

幽界はミソギの場であり、顕界での罪・汚れを消し、執着を捨て、想念を転換し、悟る場であるという。合気道は、ミソギであり、顕界でのカスをとって世の建て直しをすることである。合気道はまさに、幽界でのものといえるであろう。

高齢者は力をつける顕界の稽古ではなく、「能」や「茶道」と同じように幽界の稽古をするのがいいだろう。力を込めたり、力んだりすれば「天の浮橋」から落下してしまうので、「能」の雲の上を歩くような足運びや「茶道」のお手前のような無駄のない、優雅な所作を研究し稽古をするのがよいのではないだろうか。そのためにも、時間とお金が若者よりある高齢者には、「能」を観たり、お茶を嗜んだりして、幽界を経験することもお勧めである。高齢者の合気道の稽古は顕界から出て、幽界に遊ぶのがいいのではないか。