【第432回】 死ぬまで発達し続ける

人は25歳ぐらいまでは成長期にあるようで、それまでは細胞分裂を繰り返し細胞の数も増大する。だが、その後は、細胞は生まれ変わるが、あとは減少し続けるという。ちなみに、人間は約60兆個もの細胞でできていて、1秒間に約5000万もの細胞が生まれ変わっているそうである。

赤ん坊や幼児、子供が日増しに大きくなっていくのを見ると、体の中で細胞がどんどん増え、新しく生まれ変わっていくのがわかる。それに引き換え、高齢者は細胞が減少していくのが、自分も周りを見ても高齢化を実感できるように思われる。

だれでも若い頃は、勉強や運動、遊び、趣味などに打ち込んで、上達するのを楽しんだことだろう。思い出すと、あんなことによくあれだけ一生懸命になれたと、我ながら感心してしまう。

それができたのは、そのとき、そこに偶然とか、運といえるような出会いがあったり、やろうとするエネルギー、何かをやらなければ治まらないようなエネルギーがあったこと、それに無意識ではあるが、自分が少しでも成長・発達したいためにがんばったからだろう。

そして、だんだんと生きていくことを意識するようになっていく。どう生きればよいか、何に向かって生きるべきか、とか、好きな合気道から何を得ようとしているのか、そもそも合気道とは何なのか、等々を意識したり、考えるようになる。

60歳ぐらいまでは、仕事もそうであったが、他人に引けを取らないようにと稽古に励んだものだ。相手にやられないよう、相手を倒すことに専念し、それが上達・精進であると考えていた。

古希を過ぎたころから、仕事は第一線を引いたので、生活の主軸が合気道になってきた。それまで使っていた仕事のエネルギーが合気道に使えるようになったせいか、合気道も変わってきた。これまでわからなかったことが見えるようになり、稽古の考え方、やり方が、これまでと180度真逆になったのである。

そして、この真逆やパラドックスが合気道の特異なものであることが、分かってきた。例えば、力はある方がよいが、それを使ってはだめで、頼ってはいけないとか、相手を倒すために技をかけては駄目だが、相手は倒れなければならない、等である。

私の場合は、今や生きることのほとんどの部分を合気道が占めている。合気道は、自分の生活の凝縮といえるだろう。従って、生きる目標と合気道で目指す目標は同じ、ということになる。

これまでは何とか生きてこられたし、合気道の修業も続けてこられたが、この先どうなるかを考えるようになってくる。体力は無くなっていくだろうし、力も弱くなっていくだろう。はたして、これからもさらに稽古を続けて、上達があるか、ということである。人によっては、年を取っても道場で稽古ができるだけでよいという方もおられるだろうが、私としては、今より少しでも上達したいと思っているし、それは可能であろうと信じている。

少なくとも合気道を創られた開祖植芝盛平翁は、最後までまだまだ修行だといわれて、発展し続けておられた。多くの著名な芸能家、芸術家なども、年を重ねるほどにすばらしい仕事をしている。
 

アメリカの発達心理学者であり精神分析家のE・Hエリクソン氏などは、「人間は生まれて死ぬまで生涯にわたって発達し続ける」といっている。年をどんなに取っても、発達、上達するという保証の言葉であるが、この言葉の裏付けは合気道の教えの中にもある。

合気道の教えでは、人は地上楽園、宇宙天国のために、この世に使命を帯びて生まれ、そしてそのために生成化育をくり返しているという。つまり、生まれて死ぬまで、人は誰でもその目的に向かって進むようになっているようである。その目的に近づくことがE・Hエリクソン氏のいう発展であり、合気道における上達ということだと考える。

年を取っても上達がないのではないか、などの心配をしないで、自分を信じ、宇宙の意思を尊重して、稽古を続けていくことにしたいと思う。