【第426回】 合気道修行の前半と後半

前回は「人生の前半と後半」というテーマで書いたが、要は、人生には物質的、物理的、損得の社会、力の社会、競争社会などで生きる人生の前半、そして、損得を離れた精神的、自己向上、自己との戦いに生きる後半の人生がある、ということであった。

合気道にも、前半と後半がある。人生にあれば、合気道修行にあっても当然だし、ないのはおかしい。人生で後半をうまく生きられないようでは不幸であるのと同じように、合気道でも後半の修行をうまくやらなければ不幸ということになる。

実際、人生の前半と同様に、合気道修行も前半は誰でも問題なく稽古を続けられるだろう。形を身につけ、力をつける魄の稽古は、自分の力や力量が見えるし、他人との優劣も分かるので、少しでもうまくなろうと張り切って稽古するものだ。稽古をやればやるほど、間違いなく上手にもなる。この魄の稽古は、人生前半終了の頃の60歳前後まで続けることができるようだ。

仕事を引退する60歳頃になると、体が衰えはじめる。だから、会社は60歳頃で退職させるわけである。確かに、筋肉は落ち、力は減退するし、筋肉の疲れも取れにくくなる。これまでのように力に頼る技つかいは、難しくなるだろう。力一杯やっても、体力のある若者や外国人にはがんばられたり、弾き返されたりするようになるものだ。

これまでうまく相手を倒したり極めていたのが、できなくなってくるのである。そこで、もっと力を強くすればよいだろうと木刀や鍛錬棒を振っても、たいがいは肩などを傷めることになる。そして、力の限界を悟るはずである。

それでは、合気道修行の後半はどうすればよいか、ということである。一言でいえば、それまでの魄の稽古から魂の稽古に変えることである。

これまでの力に頼る魄の稽古から、それまで培った魄を後ろに控えさせ、心(魂)が先に立つ魂の稽古をするのである。相手を倒す事を目標とした相対的な稽古から、自分との闘いである絶対的な稽古、そして、宇宙との一体化を目指す和合の稽古、愛の稽古、ということになるだろう。

しかし、この後半の稽古への転換は難しいものだ。前半でやっていたことと180度の逆転だからである。それまでは腕力や体力の力でやっていたのに、力に頼れないのである。こころ、精神(魂)でやるのであるが、まずは心で相手が倒れる事を信じなければならない。心(魂)が腕力・体力(魄)より強いことを悟らなければならない。そのためには、力を表に出さないようにしなければならない。それには、信念と辛抱・我慢がいるだろう。

後半の魂の稽古に変えなければならないのであるが、それには前半の魄の稽古をしっかりやっておかないと、後半の稽古が難しくなる。前半に体をしっかりつくり、筋肉をつけるだけでなく、関節を柔軟にし、心臓や肺の内臓を鍛え、息のつかい方を覚え、基本的な体の動きを身につけ、そして基本技と基本動作(転換、一教運動など)をしっかりと身につけておかなければならない。

後半の稽古は、際限なく続くはずであろう。125歳でも不十分なくらいである。それは、開祖が教えて下さっている。我々から見れば完璧に見える開祖もいつも、まだまだ修行じゃ、これからが本当の修行じゃ、などと言われていたものだ。

後半の稽古は、とりあえずは自分との戦いに勝つことであるが、その後は宇宙との稽古、つまり、宇宙のお力をお借りする稽古になるだろう。例えば、宇宙の気、天地の呼吸などをお借りするのである。人間の能力、力などは、たかが知れている。宇宙の力をお借りできれば、摩訶不思議な力が出るはずである。

これが、合気道の創始者である開祖が目指していた合気道であり、合気道本来の修行ではないか、と考える。つまり、合気道の修行の後半が、合気道本来の稽古ということになるはずである。

確かに、前半の稽古は他の武道や武術とそれほど変わりはないだろう。それは、魄の稽古だからである。だから、前半の稽古では争いが起きやすいし、なんとか力ずくで相手を倒そうとするわけである。後半こそは、他にないものであり、合気道にしかないものである。