【第422回】 高齢者は生成化育のお手伝いを

人はただ食べて寝ていればいい、というものではないようだ。つまり、食べて寝ているだけでは人は満足できない、ということである。満足できないというのは、人によって違いがあるかもしれないが、要は生きているという実感を持てない、ということだろう。

誕生してから幼児までの時期は、見るもの、聞くもの、触るものすべてが新鮮で、毎日が楽しいはずである。彼らの目は、輝いている。生きている事に満足しているはずである。

学校に入ると、勉強したり、クラブ活動や習い事をして、成長していくことや、変わっていくことに、満足したり悩んだりするものだ。そして、将来に希望を持ち、生きている事を実感することだろう。

会社に入って仕事につくと、自分のため、家庭のため、会社のため、国のためにがんばって、張り合いのある日々を送り、生産的に生きている事に満足することだろう。

学校でも仕事でもよいことばかりではなく、辞めたい、休みたいなどと悩む事もあるだろうが、それも生きているということの証である。だが、そうとわかるのは、その後のことであろう。

問題は、定年を迎え、年金生活に入ってからの生き方である。
年金や貯金で不自由がなければ、別に働く必要もない。いつ起きてもいいし、いつ何を食べてもいい、いいご身分になるわけである。勉強している時期や仕事に励んでいた時期に夢見ていた理想郷であろう。

しかし、実際にはその理想郷に住んでみると、確かに理想郷ではあるだろうが、だんだん苦の世界へと変わってくるものである。
その原因は、自分が変わっていかないこと、そして、自分が人や社会にお役に立っていないこと、などに悩むのではないかと思う。

それまでは、家族や人のため、会社や国のために生産的に生きてきたのに、今度は人や社会のために生きてないだけでなく、年金や各種高齢者サービスなどを負担してもらう受け身の立場になるのである。
多くの高齢者は、自分の存在意義、そして、どう生きればよいのかを、模索しているように思える。

定年までの生き方は、社会が教えてくれるから、仕事を終えるまではこのような基本的な問題はないだろう。
だが、定年になった高齢者の生き方は、社会も学校も教えてくれない。それで、どうすればよいのかを、多くの高齢者が悩んでいるし、また、その問題を解決すべく、試行錯誤しているように見える。

それで、例えば旅行をする。今までできなかったことをし、行きたかったところへ行くのである。これは多くの高齢者がやっていることである。
また、お金と時間があるから、投資や金・金融取引など、さらに世の中と関わりながら生きることで生きがいを持とうとする人も多い。
だが、これは誰にでもできることではないし、また、いつまでも続けられるものでもない。

誰にでもできる高齢者の根本的な生き方を教えてくれるのは、合気道の教えにある。
合気道の教えとは、万有万物はそれぞれ使命、つまり役割をもって、この世に生を受けている、ということである。人にも、使命がある。その使命とは何かというと、宇宙完成への生成化育のお手伝いである。

世の中を見、歴史を振り返って見ると、見えてくるものだが、すべてはその方向に向かっている。芸術であろうと科学であろうと、宇宙完成に役立つものが評価されるし、その完成を妨げるものは、悪として退けられる。

誰もが、高齢者になるまでは、勉強し、労働に従事することで、社会に貢献し、ひいては宇宙完成のためのお手伝いをしてきたのである。
だから、さらに高齢者になっても、この生成化育にお役に立つような生き方をしていけばよいのである。各々は使命、役割が違うから、それは自分で探してやっていけばいい。

例えば、お孫さんを育てる助けをする、地域に貢献する、後進に自分の会得したものを継承する等など、いくらでもあるだろう。ただ、注意しなければならない事は、これまでのように金銭的、物質的な見返りは期待しないということである。宇宙完成の生成化育のお手伝いをしている、という満足感のご褒美があるだけである。しかし、これこそが、生きているという満足を実感できるものなのである。

まずは、合気道をたしなんでいる高齢者が、このことを身につけ、世間で悩んでおられる高齢者に、この合気道の生き方を教えて差し上げて欲しいものだと願う。それが、合気道家の使命であろう。