【第42回】 自分の気持ちを表現する

人は誰でも自分の気持ちを表現したいと思っているし、それを人に評価して欲しいと思うものだ。自分の喜怒哀楽だけではなく、自分の思想、美意識、美的感覚、世界観等などである。しかし、現実には思うようにできないものだ。若いうちは、自分の気持ちがまだよく分からないだろうし、自分の中に表現するだけのものが充分蓄積もされていない。仕事で働いていれば、自分の気持ちを殺し、我慢して働くことも多いだろうから、自分の気持ちを形にして表現する余裕もなかなかないだろう。

一般的に絵描き、音楽家、舞踏家、漫画家などの芸術の世界ではそれがやりやすいと言われる。しかし、この世界は好き嫌いもあるが、才能がないとなかなかできず、誰にでもできるものではない。

合気道は誰でも、いくつになってもできる。
合気道の稽古は二人で組んで技を掛け合い、投げたり、受けをとるが、自分が納得できたり、出来なかったり、また、相手も納得しなかったりするものだ。技はその人間性と思想、それにその場の感情等が出てくる。若いあいだはエネルギーも溜まっているし、そして相手に負けまいとガムシャラにやるが、闘争的、破壊的な技には相手が心身ともに抵抗してくるものだ。また、やった本人も完全には満足できない。そこでだんだん自分の感情や気持ちだけで稽古をしては駄目だということが分かってくる。破壊的な技ではなく、創造的な稽古をしなければならないと思うようになる。合気道は破壊的な気持ちを取り去り、創造的な気持ちを育成する機能もあるのだろう。

合気道の基本の形は同じでも、技はどんどん変わっていく。時代の変革を別にしても、自分の考えや気持ちなどが変わると、技も変わっていくものである。合気道の面白さの一つは、自分の気持ちや考えを技で表現できるし、また技がその人の気持ちを示すのである。従って、人の技を見れば、その人の実力だけでなく、その人がどんな気持ちで稽古しているか、何を目指しているのか等がわかるものだ。

高齢者になり、仕事の一線から退いて、時間もできると、何かしたくなるだろう。何か自分を表現したくなるし、できれば何か自分のものを残せればいいと考えるだろう。それが見つからなかったり、いろいろな理由でできないと、寂しかったり、イライラしたりする。

合気道の稽古では、高齢になっても自分を表現する稽古ができる。合気道は試合がないので、自分の気持ちを表現しやすく、それを体や技で表すことができる。技から自分の気持ちや相手の気持ちまでも分かるようになるようだ。

高齢になっても、合気道で自分の気持ちを表現し、自分の技の変革を見て自分の成長を確認して行きたいものである。