【第381回】 自分の課題をもつ

人は生まれてくれば、必ず死ぬ。子供の頃には、時間の流れが遅かったせいか、いつまでも生きられるような気がしたし、老人は初めから老人で、子供時代などなかったかのような錯覚を持っていたものだ。

老人、特に後期高齢者になると、時間はどんどん速度を増しつつ過ぎ去り、いつか近いうちにお迎えが来ることを確信するようになるだろう。

しかし、ありがたいことに、お迎えの正確な時間や場所や様子は知らされていないし、誰も知らない。おそらくお迎えが来る時間は既に決まっているのだろうが、知らないのだから、それまで精一杯生きることができるわけである。

精一杯生きるということは、お迎えが来た時に、やることはやったし、知りたいことは知った、ということになるだろう。死の床で、あれを食っておけばよかったとか、あそこに行っておきたかったとか、あの事が知りたかった、などというようでは、満足してあの世へ行けないだろうし、精一杯生きたことにはならないだろう。

精一杯生きて、満足できるのは、やるべきことはやった、という気持ちであろう。合気道の翁先生は、人は生まれたときから使命を帯びている、といわれているが、確かに、人は各人がいろいろな使命を帯びているようである。(『第378回 役割を果たす』

それらの使命(役割)を果たせれば、精一杯やったと満足できるのではないだろうか。

60歳、65歳ごろまで、ほとんどの人は仕事に従事し、社会の生産的役割を果たしている。だが、退職すると、さらなる役割をもつことや、それを満足に果たしていくことが、難しくなるようである。

別に新たな役割を持たなくとも、時間や金に余裕や興味があれば、よいのかも知れない。だが、人は何もしないことを望む一方で、何かの役割を果たすとか、あるいは何かに挑戦すること等を、望んでいるようである。

高齢者がボケずに精神的・肉体的に健康で生き、そして最後の時に精一杯やったと満足するためには、各人それぞれにいろいろなことがあるだろうが、次のような条件の下にやるのがよいのではないかと考える。

まず、自分の課題をもつことである。そして、その課題を毎日、自分に課すのである。他人との相対的な課題ではなく、自分の成長のための絶対的な課題として、たまに気が向いたときにやるのではなく、毎日やることである。

合気道の稽古をする場合も、毎日、自分に課題を課して、道場であれ道場以外であれ、その課題を解決していくのである。例えば、木刀の素振りを毎日やり、何か新しい発見をしたり、新しい技を身につけたりする、という課題を課すのである。

次に、何をやるにしても、緊張するものでなければならない。例えば、ただ走っても、緊張を欠いて走れば、走る意味があまりない。時間に挑戦したり、走り方の研究をしたり、息づかいを研究する、などとやってみると、緊張が持続するはずである。本を読むのも、緊張を欠くようでは、身につかないだろう。

合気道の稽古でも、緊張を欠いて稽古するのでは、あまり得るところがないだろう。少しでも呼吸力をつけるようにするとか、技の法則を見つけ、身につけることなどに、集中するようにすれば、緊張するはずである。また、自分の身心の限界を伸ばしていこうとすれば、緊張がいる。

年を取っていくと、それまでの社会や人間とのしがらみが無くなってくる。さらに、あちらに行く時には、だれもが一人ぼっちのはずである。

そうなると、どんどん自由になるわけだが、自由になりすぎると不自由になり、精一杯やったという満足感を得にくくなるものだ。

高齢者になれば、毎日、自分の課題を持ち、それに挑戦し、緊張した日々を送ることが、最後の最後に、精一杯やったと満足できるのではないか、と考えている。