【第356回】 価値基準

人は、ものごとの善し悪しを判断する物差しである価値基準をもっている。それがなければ生きていけないし、仕事や勉強もできないはずである。それをやるかやらないか、どれをやればよいのか、等などを決める判断基準である。

その判断基準になるものはいろいろあるようだし、有史以来、人類はそれを考え続けているようだが、まだ完全なもの、絶対的なものを見つけてはいないようだ。だから、人はその時その場に応じた価値基準で、ものの善し悪しや選択をしていくしかない。

人はだいたい、まず自分や家族のためになるか、他人のためになるか、社会や国のためになるか、世界や人類のためになるか、で物事の善し悪しを判断していくようだ。若いうちは自分が中心で、自分に不利でさえなければ、社会や国、世界や人類のためというのが価値基準の順序となるだろう。

しかしながら、高齢になっても若いときと同じように、自分やものを価値基準の中心に置いているのを見ると、滑稽に思える。喫茶店や電車の中で、株や土地で儲けたとか、二軒目の家を建てたとか、仲間内で話しているのを聞くと、不自然で滑稽なのである。見ればあと残すところそう多くない命なのに、そのようなことに時間と労力を使っているのが、哀れに思えてくる。物をいくら持っても、あちらに行く時には持って行けないのである。

価値のあるなしの判断基準、それも絶対的な判断基準を持ちたいものである。すべてのもの、すべての場合に適応する、矛盾のない判断基準である。それは合気道の教えの中にあると思う。

合気道では、何もなかったところにポチの一元の大御神が現れ、そこから魂霊と魄霊が出て、十字に絡み合いながら宇宙を創り、大御神はこの宇宙を宇宙天国、宇宙楽園にすべく、宇宙生成化育を続けている、と教えられている。人も万有万物も、この宇宙生成化育のために出現し、生存しているというのである。

万有万物が宇宙生成化育のためにあるとすれば、宇宙生成化育に役立つものは善であり、そうでないものは悪という価値基準ができることになる。この価値基準は、万(よろず)、そしていつの時代、要は、上下四方・古今往来、つまり、宇宙にマッチする基準、ということになるだろう。

ものごとの善し悪し、それに価値があるのかないのか等の判断基準は、どこでも、何時でも、誰でも、それが宇宙生成化育のためになるかならないかで判断していけばよいだろう。