【第337回】 年を取ってくると変わるもの

高齢者になったので、年を取るとはどういうことなのか、若い時とはどこが違うのか、そして年をとると何がよいのか、どうすればよいのかを、この辺で思いつくままにまとめてみたいと思う。

50,60歳は、高齢者の内には入れない。まだまだ自分のことや物事を知らない「鼻ったれ小僧」であるからである。これは大先生(合気道開祖)が常々言われていたことだから、私の責任ではないし、恨まれても困る。でも、私も最近そう思うようになってきただけでなく、自分の経験に照らし合わせて確信もしている。

年を取って変わるものは、肉体と体力が衰えることだろう。衰えるとは、何もしなければ衰える速度が加速することであり、鍛えるにしても、その効果は加速度的に減速するということであろう。

これとともに五臓六腑といわれる内臓器官も衰えているはずである。また、視力、聴力、嗅覚、味覚なども確かに衰えている。とりわけ視力が確実に悪くなった。これは若いころとは違うし、年を取るデメリットである。

こうして見ると、肉体的にはデメリットのようだが、精神的にはメリットが多いようである。まず、若いころと違って、他人との競争や戦いに興味がなくなり、まわりに振り回されなくなることがある。他人との戦いではなく、自分との戦いに興味があり、そして誰にもご迷惑をお掛けしないこの戦いが、生きがいになってくるようだ。

若いころは、いろいろな国や人、社会や習慣などを知るべく、時間と金と労力をつかい、外へ外への拡散的生き方をしてきた。だが、年を取ってくると、やりたいこと、やるべきことに集中し、そして、そこをどんどん深く掘り下げていける。

若いころは、もっと外見を重視していた。見栄えのよいものを愛で、評価していたし、自分自身も身なりや服装に気を使うことで楽しんでいた。

年を取ってくると、豪邸、高級車、洋服、化粧顔などなどには興味がなくなる。興味があるのは「人」であり、そして、その人の中味である。豪邸から出てくる住人や、高級車を運転している人、いい洋服を身につけている人、ばっちり化粧をしている人も、中味と不釣り合いだと失望するだけである。

人の中味も、見ればある程度わかるし、仕草や動作にもあらわれるし、ちょっと話をすれば大体分かってしまうものだ。中味とは、人格である。知能、教養、知恵、人生観などを総合したソフトであるといえよう。

これに関連して、年を取ってくると、言葉を理解しようとするより、感覚で判断するようになる。話し手が何を言おうとしているのか、言葉不足でも感覚で分かってしまう。振り込め詐欺はこれが負に働いてしまう悲劇であるといえよう。

言葉がなくとも人のことが分かるようになってくるし、人以外の生物、つまり動物、鳥、植物などの気持ちが分かってくるような気持ちになってくる。しかし、あちらさんからの的確な反応はまだないので、こちらの思いすごしかもしれないが、これも若いころにはなかったことである。

若いころは、金持ちや教養人、有名人、大会社の偉い人などなどに出会うと、敵わないと思ってしまいがちだった。だが、年を取ると、それらの人たちも年を取ってただの人になることがわかってきた。そして、大事なことは、そのただの人になって、何をどのようにするかが大事だ、ということが分かってくる。

ただの人になっても評価されるのは、自分のやりたいことに挑戦する人であるといえよう。挑戦している姿、人はすばらしい。金があろうがなかろうが、そんなことは関係なくなる。逆に、経済的な余裕があっても、挑戦という緊張がない日々を送っている人は、気の毒に思えてくるものだ。