【第334回】 技は人格の表現

人は自分を表現したいという気持を持っているようだ。画家は絵で表現し、音楽家は曲や演奏で表現するが、それだけではなく、誰でもできれば自分も自分を表現するものを持ちたいと思っているのではないだろうか。

合気道を稽古する稽古人も、自分を出したり、表現できればいいと思って入門し、稽古を続けている人は多いだろう。しかし、それは潜在的、無意識での希望であると思うので、意識する人は少ないかもしれない。

道場で稽古しているのを見ると、技つかいや体つかいや動きは人によって違っていて、誰ひとり同じではない。達人・名人の師匠について稽古しても、多少の真似はできるが、完全に師匠と同じにはなれない。たとえ師匠が弟子に少しでも自分と同じになって欲しいと思っても、不可能なのである。

上達するために練磨している技つかいが各自すべて違うのは、まったく同じ人は存在しえないし、それ故、人、つまり人格が違うからであろう。たとえ双子であっても、双子が同時にまったく同じ場所にいることはできないわけだから、同じにはなりえないわけである。

人格が違うから、つかう技も違ってくる。また、人格が変われば、技も変わることになる。技は同じものではないし、固定したものではない。従って、技をよい方に変えていきたければ、人格を変える必要がある。そのためには、真善美の探究が必要になる。合気道は真善美の探究である、といわれる所以である。

場合によっては、また、技の上達に行き詰ったら、絵画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだり等して、人格を変えるようにした方がよいだろう。

かつて本部道場で教えられていた有川定輝師範は、「俗に技は人格の表現と言われている。無心に稽古するとき、自ずから技に人格が現れる。」(「千葉工業大学合気道部部誌「和」創刊号」)といわれていた。

ここで有川師範が言われていることの核心は、ただ技をつかっていても、その人の人格は現れるが、自分の真の人格を表現するためには、無心になって稽古しなければならないということであろう。無心で稽古することによって、本当の自分の人格が技で表現でき、その表現された技で、自分の人格の変化、つまり真善美のレベルアップの有無がわかることになる、ということであると考える。

有川師範の稽古時間は、みんな緊張した。師範はいつも小さな声で教えたり、説明したりされたが、無心にならずに稽古している者は嫌悪され、厳しく注意されていた。稽古人がみんな無心になって稽古できるように、努められていたのだと思う。

稽古は無心になって、自分の人格を表現し、人格が高まるようにしていきたいものである。