【第333回】 合気道に感謝

中学2年生の夏だったと思うが、クラブの軟式テニスの練習を終え、星空を見ていて、突然、自分は小さなものだと思った。自分は、あの星より小さな地球という星の表面にへばりついているゴミみたいなものではないか。このゴミみたいに小さいものが悲しかろうが、うれしかろうが、何をどうしようと、星や天体や宇宙には関係ないだろうし、自分がいてもいなくても、彼らには関係ないことだろう。

しかし、それから数日して、もし自分がいなければ、星や天体や宇宙があろうが、大きかろうか、自分には関係ないのだから、自分がいることは自分にとって一番大事なことである、と思うようになった。

学校では、勉強はほとんどしなかった。先生が教えてくれることに、あまり興味を持てなかったからである。今考えると、何かそれとは違うことを学校や先生から期待していたのである。それは試験のための知識ではなく、生きるための知恵を期待していたのだ。だから、高等学校まで授業はつまらなかった。ただ、体操の時間だけが楽しかった。

大学の授業もつまらないものであったが、ときどきあった試験も厳しくなく、時間は十分あったし、やりたいことは何でもできたいい時代だった。それに、いろいろと面白い友達もできた。

大学に入って間もなく、アルバイトで知り合った友達ができた。早朝のアルバイトが終わって、いつも喫茶店でモーニングサービスを取りながら「人生とは何か」の激論をした。一年以上このテーマでの激論が続いたが、自分の意見を誰も変えないので、この激論も自然消滅してしまった。

「人生とは何か」を知ろうと、学校の周りの古本屋を探し回ったが、これに完全に応えてくれる本を見つけることはできなかった。一番近いものは、「人生とは真善美の探究である」というものだったので、とりあえずこれを人生のモットーとすることにした。

人生とは何か、ということのためには、「絶対とは何か」が分かれば、その絶対を基準に生きればよいはずだと思い、「絶対」を探すことにした。すると、絶対とは「死」しかないというので、そうかなと思っていると、死んでも霊が残るとか、また、その人はいろいろなことを周りに残すので、完全に死んだとも言えないなど、「死」もまた絶対ではないようで、「絶対」を探すこともできなかった。

次の課題は、「自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか」である。この課題は、誰でも持っているはずであるし、できれば何とか生きている間に解決したいと考えているはずである。しかしながら、これらの問題や課題を、学校も先生も、学者も宗教家も、解決してくれないのである。

前回に書いたように、ありがいことに合気道に導かれた。入門したときは、ちょうど開祖はご旅行中で、お留守だったが、お戻りになってお話を伺っていると、「合気道とは真善美の探究である」と言われたのである。そこでハッとした。「人生は真善美の探究である」であろうかと考えていたので、合気道によって人生とは何かがわかるかもしれない、と思ったのである。つまり、合気道は人生を凝縮したものである、と考えたのである。つまり、合気道を一生懸命にやれば、探しているものを見つけることができるだろうと思った次第である。

絶対とは何かという課題も、合気道の教えにある。合気道では、万有万物の根源である一元の大神様をいう。万有万物はすべてこの大神様に繋がっており、この大神様の意志によって、つまり宇宙完成のための生成化育のためにあるのである。

これを宇宙の意志、宇宙の営みというのである。そこには、宇宙の条理、宇宙の法則があるのである。この宇宙の条理や宇宙の法則に則るものは善であり、それに逆らうものが悪となる。

「自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか」も、これで解決できる。人は宇宙生成化育のために、世に出てくるのである。一人の人間は、一個のぽつんと孤立した人間ではなく、一元のもとに繋がり、それまでの過去と、完成する宇宙の未来と繋がる、宇宙人なのである。

「人生とは何か」「自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか」の回答は、合気道でしか得られないだろう。どこかの宗教や学問が回答をだしているかも知れないが、そうだとしても、合気道ではこれを身体で自覚し、技で表さなければ、分かったことにならない。だから、それらのものとは違う回答になるだろうし、それは時間や地域を超越した、宇宙的回答になるはずである。

合気道に導かれて出会うことがなかったとしたら、長年の課題であった「人生とは何か」「自分は何者なのか、どこから来てどこへ行くのか」は、解決できなかったはずである。まだまだ解決の途中ではあるが、合気道に感謝である。